遥かなり昭和

第一章 本格西洋理髪師 大場秀吉
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人脈は最大の財産、と言われる。人脈の言葉が余りに功利的に聞こえるなら、人間付き合いと言い換えてもよいだろう。父秀吉の生き方をみていると、本当にそう思う。
 秀吉は上京して麹町に店舗を築いた明治三十五年、大場八重と内輪の祝言をあげ、正式に婿養子となっている。勘之助の反対を押し切っての上京であったから、大場秀吉として生きるようになるには当然そこに何らかの和解があったはずである。しかし、夫婦となりながらも八重は横浜で父と共に暮らし、秀吉は週末に仕事を終えてから会いに行ったのであった。二人が一緒に暮らすようになるのは、二年後のことだ。東京における秀吉の暮らしがその余裕を生み出せなかったと言えないこともないが、そこには当事者にしか窺い知れないわだかまりがあったように思えてならない。そのわだかまりは将来に不幸な影を投げかけることになるが、それは後に譲る。
 渡辺秀吉改めて大場秀吉は、増島事務所の軒先を借りながら、本格的な店舗設立に向けて、動き出していた。その際、力になってくれたのは、この増島氏を初めとした顧客たちである。その一人に酒井静雄氏がいる。酒井氏の名は現在では知る人は少なくなったが、かつては東武鉄道グループの総帥根津嘉一郎翁や新宿将軍の異名を持つ浜野茂氏と並んで、「相場師明治十傑」の一人といわれた人物である。
 秀吉自身は一理髪師であるから、自分のほうから近づいていったわけではない。不思議なことに、秀吉の椅子に座った顧客がいつのまにかファンになって、秀吉のために一肌脱いでくれるのだ。当時の記録は戦災で焼けてしまったため書類としては残っていないが、増島氏も酒井氏も秀吉のために無担保で融資をしてくれた。
 自分の父を誉めるのは気恥ずかしいが、秀吉には、どこか人を惹き込む人格的魅力があったように思う。
 秀吉はそうした支援の下、現在の港区西新橋、当時で言えば東京市芝桜田本郷町十四番地に新たな店舗を築き始めた。
 桜田本郷町と言っておわかりにならなければ、田村町のほうが通りが早いかもしれない。現在の日石本社、旧NHKの御成門寄りに道を隔てたところと言えばよいだろうか、そのNHKはまだ建っていない。一帯は鍋島家の下屋敷跡で、鍋島さんはすでに借地にしていた。
 地代は坪十三銭位だった。地価が滅茶苦茶に高騰した今日と違って、東京は戦前まで土地もそう高くはなかったし、借地・借家はいくらでもあった。坪十三銭と言っても貨幣価値がまったく変わってしまったので比較しようがないが、それでも相場よりは安かった。そこに六十坪の土地を借りた。もっともこれは私の知っている後のことで、当初はもう少し狭かったかもしれない。ともかくそこに秀吉は三階建ての店舗を建てた。
 秀吉は中途半端なことが嫌いな人間だった。麹町の店舗はあくまで仮営業であったから、理髪椅子に代わって普通の椅子で間に合わせていたが、その間にアメリカから本格的な理髪椅子を取り寄せていた。
 アメリカには兄の吉次郎が渡っていた。その兄に頼んで、当時理髪椅子では世界一と言われたコーケン社のものを輸入したのである。このときのコーケン社のハイドリック(手動式)椅子一台はメーカーにより解体研究鵜され、日本のハイドリックの見本になる。
 その理髪椅子が届く頃には、店舗はすっかり出来上がっていた。三階建ての洋風モルタル造りである。理髪椅子と共に輸入した大きな鏡をはじめ、各種の什器もすかっり整った。内装工事もほぼ終わり、あとは什器類を運び込んで開店準備をするだけとなった。
 明治三十五年十二月、開店を目前にして、新店舗では内装の仕上げと、什器類の搬入が行われていた。注文した理髪椅子は五台だったが、どうした行き違いか二台しか届かず、三台が遅れていた。しかしそれもようやく届いた。
 陣頭指揮をとって準備を進めていた秀吉もさぞかしほっとしたことだろう。
 理髪店では、理髪椅子は内装がすべて終了した時点で運び込む。理髪椅子の搬入が、総仕上げということいなる。秀吉はその日、五台のうち取りあえず一台の搬入を命じた。
 ようやく、念願の理髪店が誕生しようとしていた。上海の一流店で修業した秀吉の眼には、当時の町の「床屋」は理髪店とは言えなかった。理髪とはただ単に髪を刈って洗い、顔を剃ればいいというものではない。客には理髪椅子に座った瞬間から心身共にリラックスしてもらい、満足感を抱いて帰っていただかなければならない。町場の店ではまだ行われていなかった「キャンブル・マッサージ」もその一つであるが、客を満足させるには理髪師の技術やマナーはもちろんのこと、それにふさわしい店作りが必要になるのである。
「春光館」と名づけた桜田本郷のこの店で、秀吉は理想の店を作り上げたつもりだった。アメリカから理髪椅子を取り寄せたのも、そのためであった。そして、そうした秀吉を理解し、援助してくれる顧客がいることも大きな誇りであった。
 秀吉は開店準備に追われながらも、上海での苦労がようやく報いられる日が来る喜びを、ひとり噛みしめていた。
 しかしその秀吉が夢にさえ思わなかったことが起きてしまった。理髪椅子の最初の一台を運び込んだ日のことであった。
 三階建ての店舗は、二階と三階に部屋が作ってあった。二階が従業員用、三階が主人用でった。その晩、三階の部屋で食事をとっていた秀吉は階下から聞こえてくる悲鳴に気づいた。襖を開けて廊下に出ると、白い煙とムッとする熱気が階下から吹き上げてきた。秀吉はすぐさま階段を駆け降りていった。
 そでに手遅れであった。一階の理髪室は一面火の海となって、炎は二階に這い上がろうとしていた。従業員がバケツの水をかけようとしていたが、そんなことで消える炎ではなかった。秀吉は従業員達に外の道路に避難するよう大声で命じるのが精一杯であった。
 夢を実現するには時間がかかるが、潰れ去るのはほんの一瞬でしかない。翌朝、改めて眺めてみると、数日後に開店するはずだった新店舗は燻り続けるモルタル壁と柱を残して、ことごとくが焼け落ちていた。
 幸いなことに、誰も怪我人が出ず、周りに家屋が建っていなかったので、延焼もなかった。輸入した高価な理髪椅子をまだ一台しか搬入していなかったことも、不幸中の幸いであった。
 失火の原因はストーブであった。秀吉は上海と同じ造りに建てさせたのだが、煙突の煙が潜り抜けるところが上海のように石や漆喰ではなくて材木であったために、過熱して火を出してしまったものらしい。
 秀吉の落胆がいかばかりであったかは、改めて述べるまでもあるまい。
 この店舗は秀吉一人の力でできたわけではなかった。増島氏や酒井氏といった顧客たちが、秀吉の人柄に惚れ抜き、その夢に賛同して資金援助してくれた結果であった。
 律儀で几帳面であった秀吉のことである。済まないという思いで一杯であったろう。当然、詫びに行ったはずである。
 その折のことは、父秀吉から直接耳にしたことはなかったが、援助者の一人酒井静雄氏は融資を灰にしてしまったことに腹を立てるどころか、その返済を凍結してくれた上にさらに同額の融資を申し出てくれたという。担保といっても、秀吉の信用以外はなかったにもかかわらずに、である。
 その話を後になって伝え聞いただけのわたしには、融資顎がどのくらいであったか見当もつかない。しかし、安い地代とはいえ三階建ての店舗を建て、輸入品を含めた什器類を揃える費用はかなりかかったであろう。それらの主財源となれば、少なからぬ金額であったはずである。
 秀吉の幸運は、そうしたよき人間に恵まれたことであろう。また、人間同士が信頼し合い、おおらかに暮らすことができた時代でもあった。
 現実には桜田本郷の店舗が焼失前と同じ規模に建て直されるのは、明治四十一年を待たなければならない。その間、秀吉は同じ場所で縮小した形で理髪業を営んでいる。また、後に、触れることがあると思うが、帝国ホテルの理髪室をも手がけ始める。
 そして、新店舗が竣工した翌年の四十二年、私が生まれている。
 私が生まれる頃には、<大場理髪舗>を営む秀吉の名は、業界では有名な存在になっていた。いや、業界よりも顧客の間で、といったほうがよいかもしれない。本場の上海で西洋理髪を修業した少年は、三十三歳になっており、馬車で乗りつけてくる上流階級人士たちを迎える「東京一の西洋理髪店」店主として評判を取るようになっていたのである。

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