遥かなり昭和

第一章 本格西洋理髪師 大場秀吉
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事件のそもそもの発端は、横浜グランド・ホテルの米人支配人がアメリカからキャンブルという理髪師を招聘したことから始まった。
 キャンブル氏はフランス系の技術を習得した英国系アメリカ人であった。支配人は招聘に当たって、現在ホテル内で営業している日本人理髪師を辞めさせるつもりであるから、代わりにやってほしいと頼んだらしい。白人の理髪を黄色人種がやっているのはよくない。やはり白人がやるべきだというのが支配人の主張であった。
 この話が持ち上がったのは、秀吉が大場理髪店で働くようになって三年目を迎えた、明治三十三年のことだった。
 理髪室を引き払うように通告された大場勘之助は、逆に抗議した。自分たちは今まで働いてきて、お客さんから苦情があった例がないばかりか、逆に喜ばれているくらいである。それなのに何故辞めなければならないのか。第一、そうなったら自分以下、理髪師たちは路頭に迷ってしまうではないか・・・。
 しかし支配人のほうは、すでに会社側の命令で決まったことだから、今さら覆えすことはできないと突っ撥ね、耳を貸そうとしない。怒った大場は、この件を顧客の外国人たちに訴えた。
 と、話を聞いた顧客はこう口々に言ったらしい。
 中国との戦争(日清戦争)に勝って、日本は大国になったんじゃないか。君たちもいつまでも遠慮していることはない-。
 いい考えがある。アメリカはデモクラシーの国で世論の前には大統領でも支配人でも、頭を下げざるを得ない。ここに来る客一人ひとりに意見を聞いて、その結果を支配人に告げたらどうかね-。
 そこで、大場は支配人の措置に関して、顧客から意見を聞くことにした。今から考えれば、いかにもグランド・ホテルの理髪室らしい面白い経緯であったが、ともかく店に来る客に片っ端から意見を聞いた。すると、日本人でどうして悪いんだという意見が絶対多数を占めた。二、三人は支配人の立場を支持したらしいが、ともかくそれ以外の客は大場側の立場に立ったのである。
 その結果を突き付けられた支配人はさぞや困惑しただろう。しかし、客の一人がいみじくも言ったように、アメリカは世論が絶対のデモクラシーの国である。渋々であったが、支配人はキャンブル氏の就任を撤回し、大場理髪室が以前通り営業することを認めた。
 もっと困惑したのは、はるばるアメリカからやってきたキャンブル氏本人であろう。何分、旅客機がなかったあの時分、船で太平洋を渡ってくるのであるから、かれこれ二か月近くが経っている。その間に騒動が持ち上がり、横浜に着いた頃には時分に予定されていたポストが宙に消えてしまったのである。
 日本を代表するホテルで営業してほしいと懇願され、時分の店をたたんでの来日であった。それが、ようやく辿り着いてみれば、開業できなくなったと知らされたのである。アメリカ人のことであるから、もちろん支配人に補償を申し入れたことであろうが、落胆が大きかったことには変わりあるまい。
 一方、大場側ではキャンブル氏に同情してしまった。もとはと言えば支配人が悪いのであるが、キャンブル氏の立場になれば気の毒なことこの上ない。
 せめて、キャンブル氏に何かしてあげられることはないか。
 そう考えた末、せっかく日本まで来たのだから、滞在費と謝礼を出して、その技術を披露してもらおうではないかということになった。こうすれば、キャンブル氏にとっても収入になると同時に、大場にとっても格好の勉強の機会となる。
 早速、仕事ぶりを見せてもらうことになった。まず、カット、次いでシャンプー、シェーブ・・・。ところが、秀吉も芝山氏も内心、なんだと思ったらしい。
 秀吉は上海で修業している。芝山氏は海外へは出ていないが、第一世代の名理髪師である松本貞吉の一番弟子であった。二人とも腕に自信を持っているし、日本人はもともと器用である。
 あの鋏の使い方は何だ・・・。シャンプーだってもっと手際よくできるはずだ・・・あのくらいのシェーブなら習うまでもない・・・。
 二人はそれぞれの腹の中で考えたらしい。
 そんな失望を感じ取ったのだろう、キャンブル氏はこんなのもできると、フェイシャルの技術を挙げた。美顔術である。
 芝山氏はびっくりしてしまった。当時、日本でこのフェイシャルなど考えられもしなかったのである。秀吉は上海時代にスミス氏の店で、このフェイシャルをよく見ていたが、そこで働いた一年余りの間には、本格的に学ぶ余裕はなかった。
 これからの理髪には、フェイシャルも欠かせなくなるかもしれない。こんな機会はめったにあるわけではない・・・。
 二人は同時にそう思った。そして、フェイシャルを本格的に教えてもらおうではないか、ということになった。
 キャンブル氏には一週間、滞在を延ばしてもらい、その間に講習を受ける。滞在費用は秀吉と芝山氏の二人で折半しよう。そんな約束でフェイシャルの講習が始まった。
 一週間、文字通り朝から晩まで、二人は勉強したようである。後に秀吉は寝るのも惜しんで学んだと書いているが、そんな日本人青年の熱意に応えるかのように、キャンブル氏もフェイシャルを顔だけでなくどうして首までやらなければならないのか、そのためにはどうしたらよいのか・・・・、と自分の持てる知識をすべて披露し、手を取るように教えてくれた。
 これは後のことになるが、秀吉は「大日本美髪会」に籍を置いてから、東大の医学部に衛生学講座の聴講に行っている。恐らく技術のほうはこのキャンブル氏から徹底的に指導を受けたが、たとえば皮膚の下の血液の流れはどうなっているかというような科学的な裏付けを学びたかったのだと思う。
 大きな階段教室で、学生さんたちの邪魔にならないように一番天辺に座って、解剖学を見せてもらったんだ・・・。
 父は私にこう話してくれた。
 聴講といっても、学校教育を受ける機会がなかった秀吉のことだから、正式のものではない。一緒に「大日本美髪会」をやっていたメンバー、船越景輝氏の顧客であった東大教授に頼んでみたところ許され、フェイシャルに興味を持つ有志が聴講させてもらったという経緯であったらしい。ともかく、こうした自分自身の研究を加えて、秀吉はマッサージの基礎を築いた。
 さて、一週間のフェイシャルの特訓は無事終わり、キャンブル氏は予定通りアメリカに帰って行った。大場勘之助は一難が去ってほっと一息という気持ちであったろうが、<大場理髪店>にとっての事件はその後に起こる。原因は芝山兼太郎氏にあった。
 当時、理髪器具は鋏や櫛をはじめ国産で充分に通用するものも多かったが、日本ではまだ造られていないものもあった。それらの輸入は今ほど簡単ではなかった。西洋理髪にはそうした器具の調達も重要になってくる。
 芝山氏が負けん気の強い男であったことは前にも述べた。何でも一番にならないと気が済まない彼は、キャンブルから講習を受けている間に秘かに交渉し、フェイシャルに必要な器具類をはじめ、日本に持参した器具類をすべて買い取る約束をしてしまった。キャンブル氏にしてみれば、アメリカに帰る訳だから手軽になりたかっただろうし、一方芝山氏にしてみれば最新のフェイシャル技術を身につけた上に器具類を独占できたわけである。
 温厚な性格であった秀吉がこの「抜けがけ」にどのように反応したかは、わかっていない。が、ともかく大場は怒った。
 キャンブル氏に残ってもらうようにたのんだのはわしであるのに、それを差し置いてけしからぬ振る舞いをするとは何事だ。そもそも、ここはわしの店で、君は使用人に過ぎないではないか-。そんなことで引き退がる芝山氏ではない。芝山氏のほうではこう反論する。そんなことを言っても、フェイシャルの講義は秀吉と自分が金を出している。そもそも器具はキャンブル氏に諒承を得て譲り受けたものであるから、他人から何も言われる筋合いではない-。
 その挙句に、芝山氏は<大場理髪店>を飛び出してしまった。大場の怒りに対しては、アイロンを二、三本とヒゲ剃りに使うカップスを数個残して行った。
 芝山氏はすぐ横浜の尾上町に自分の店を出した。ちょうど伊勢崎町の入口に当たるところである。腕がよかったからかなり知られた店で開店当初から繁盛したそうである。残念なことに後継者に恵まれず、現在店はない。
 前にも触れたように、長女のみよかさんは美容の大家として誉れ高い。

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