遥かなり昭和

第五章 〈大場〉再興
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新宿店も赤坂店も出店に漕ぎつけるまでは、少なからぬ歳月を要している。しかし、昭和五十三年六月、成田の新東京国際空港旅客ターミナルビルにオープンした〈デュエット大場〉は、それらとはまた違った苦労があった。
 周知のように、成田空港は完成して五年後にやっと開港している。実は最初に出店するはずだった人が、執拗な空港反対運動にしびれを切らし、とうとう諦めてしまったいきさつがあった。つまり、開港間際になっても委せる人がいなかったので、空港公団から私の所に出店の打診をしてきたのである。私は誰がやっても難しいことがわかっていたので、自信がないからと辞退申し上げた。
 ところが翌五十三年に入って、再びその話が蒸し返された。
 私には店を作るだけでなく、従業員の厚生問題がある。成田は都心から六十六キロも離れ、住居となる成田ニュータウンからも約十キロ離れている。さながら陸の孤島といったところで、住居、交通、駐車場の確保とどれ一つ取ってもやっかいなことばかりなのである。そこで、秘書官には顔を合わす度に断わり続けていた。
 三月も半ばになって、公団側から改めてこう言ってきた。
「ほかのテナントはすべて決まったが、理容のほうだけ穴が開いたままである。国際空港として理容室がないのはお恥ずかしい。なんとか協力願えないだろうか」
 そうまで言われれば、座視している訳にもいかない。開港まであと三か月と迫っているのである。
 そこで、とりあえず海外の空港理容室の実情を調べてみようと、十日間の予定でアメリカ、ヨーロッパを廻ってみた。
 果たせるかな、どこの理容室も空港内の一番隅に置かれ、閑古鳥が鳴いている。技術者のマナーもなっていない所も多かった。それでも、パリのオルリー空港やニューヨークのケネディ空港だけは、国の窓口たる空港にふさわしい店構えで、従業員の服装にも気を遣っていた。総じて、空港内の理容室には見るべきところがないというのが私の印象だった。
 そのときに気づいたのだが、世界のどこの空港にも美容室が置かれていなかった。そこで私は、もし美容室を併用すれば、空港理容室ももっとニーズに応えられるのではないかと考えた。帰国すると、私は清水の舞台から飛び降りる気持ちで、公団側に出店の返事をした。四月初めであった。
 開港までにもう二か月しかなかった。普通なら材料をどんどん運び込んでの突貫工事となるのだが、成田空港では過激派を警戒して、運搬者にしても建築工事人にしても一人ひとり厳重にチェックする。一人でも新顔がいると徹底的に調べ始めるという具合なので、工事は渉らず困った。工事のほうは六月五日までかかり、ようやく六月六日に開店に漕ぎつけることができた。
 店は二十三坪しかなかったが、十五坪を理容室、八坪を美容室とし、狭いながらも理・美容店としてスタートさせることができた。これが〈デュエット大場〉である。
 ちょうどその頃、息子の隆吉が修業から戻ってきたところだった。
 降吉は慶応大学を卒業して、〈大場〉に入店した。商学部出身であったから、経営のほうは勉強していたが、理髪技術のほうは在字中に通信教育で学んだだけであった。そこで、かつて同じような道を歩んだ私白身の経験に照らし、息子には若いうちに下積みの苦労を味わわせたほうがよいと思い、故斎藤隆一さんの孫弟子に当たる中内英雄さんに弟子入りをさせた。中内さんは厳しい人だったので、息子は二年間みっちり技術を仕込んでもらい、戻ってきた。
 オープンすることになった〈デュエット大場〉を、私は隆吉に預けてみることにした。なにかと、困難も予想される店ではあったが、それを任せるのも跡継ぎたる息子のよい勉強になるだろうと思った。
 開店時はやらねばならぬことが多い。空港内の店とあって、公団側との事後の交渉から始まって、人員の配置、宣伝、渉外、各航空全社への挨拶……それらを、店長と力を合わせてよくやってくれた。おかげで私が案じていたよりも早く、八か月で軌道に乗せることができた。
 息子のほうは、中小企業診断士の免許取得の勉強のため、一年で東京に戻し、店長にバトンタッチさせた。空港店そのものは、空港と同じく不都合な点も出てきて、一時は断念して引き払うことも考えたが、店長以下従業員の努力で立ち直り、昭和五十九年には大場の全店の中で前年比最もよい成績を残してくれるまでになった。
 こんな経過を辿った〈デュエット大場〉であるが、私にとっては息子の隆吉がこれをきっかけに年ごとに力をつけてくれたのが何よりの嬉しさだった。
 私の目から見ると、息子はまだまだ不備だらけである。私とは考え方の違う点もある。生まれ育った時代環境が異なるのだから、これも当り前であろう。
 昭和六十一年、〈大場〉は六本木アークヒルズの全日空ホテル一階に五店目の店をオープンすることができた。おかげでこちらも好評をいただき、〈大場〉の陣容は次第に整ってきた。ここまで復興を成し遂げることができたのは、内肋の功を尽くしてくれた家内、私の片腕となって店を見てくれる息子、それに従業員全員の協力の賜物である。が、今になって思うと、父の残してくれた目に見えない財産を抜きに、やはり今日の〈大場〉は考えられないと思う。
 昔、父の客にキュウサクさんという白髪の外人がいた。その名の由来は知らないが、九十歳くらいまで生きた人で、うちに来ても父でなければ承知しない。その代わり、父がやるとニコニコして機嫌がよく、父も楽しそうに理髪していた。傍目でも、本当に二人共、幸せそうな顔であった。このキュウサクさんが亡くなったとき、父は男泣きに泣いた。
 今は亡き父のことを考えるとき、決まって思い山すのはこのキュウサクさんのことである。父とキュウサクさんの関係は、言ってみれば客と理容師の理想の極限を示しているように思うのである。もちろん、これは理想であって誰にも同じようにできることではない。が、客と理容師がそうした人間的な交流を捨てて技術のみで事足れりと考えるようになったとき、それはもはや本当の理髪ではない。少なくとも〈大場〉の理髪ではない。
 伝統というのは、単に古い形を伝えるだけではない。その中からよいものを見つけて、現在に生かすのが本来の伝統というものであろう。息子はヘア・カットのみならず全身のヒューマン・ケアに意欲を抱いているようであるし、店舗の拡大という目標も持っているようである。〈大場〉はこれからもっと広がっていくであろうが、そこに父・秀吉から受け継いだものが三代にわたってどのように開花していくか、今から楽しみである。

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