遥かなり昭和

第五章 〈大場〉再興
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赤坂見附はなつかしい土地である。
 私が卒業した日大三中は赤坂中の町にあったので、中学時代は田村町から歩いて通学した。今でもマラソンに外堀一周という名が残っているが、当時は文字通り外堀で、弁天池から今の東急ホテルのほうまで神田川を引いてお堀にしてあった。
 現在、あの一帯は大変様変わりしてモダンな街になったが、戦後ずっと地下鉄の駅の上に木造駅舎があって、周囲はちっぽけな商店が並んでいた。それらを取り払い、地下鉄の駅を改造して以来、赤坂見附はどんどん変わっていった。私が新宿駅名店会での会合の帰り道、駅前のかつての堀のあった土地が埋め立てられ、工事しているのに気付いたのは、昭和四十一年も後半であったように記憶している。
 あの時分、十一階捷ての高い建物は珍しかった。私が見たのは、まだ基礎固めの段階で、杭を打ち、鉄骨を立てている段階だったが、そこがホテルになると聞いて、心が動いた。
 地下鉄駅の真上であるし、赤坂という土地柄がいい。私自身、ホテル・テイトの経験からホテル内の店はぜひやってみたかった。その頃、昭和三十九年に開業した新宿の駅ビル店は連日満員の盛況が続いていた。しかし、自己資金ゼロ、借入れ金だけで始めた店であったから、まだ返済だけで手一杯で、とても新たな事業に取り組む余裕はなかった。入りたいと思う反面、無理な話だとも思った。
 しかし、ともかく当って砕けろと、名乗りを上げてみることにした。ホテルを作っているのは東急だと聞き、渋谷の東急本社を訪ねて行った。お会いしたのは常務取締役の秋元さんという方だった。この年十月であった。
「もう遅いですな」
 と、秋元さんはおっしやった。すでに出店申込みがたくさん来ているらしい。私は紹介もなく単身訪ねたわけだが、誠意をこめてお話しすると、それでは申し込みだけはしていくように勧めてくれた。
「ただ、期待はしないで下さい」
 秋元さんは、私が辞するときに重ねて念を押された。
 ホテルの出店申し込締切は四十三年四月と聞いて、私は翌四十二年五月にもう一度ダメ押しに行った。秋元さんはこのときに、初めて八人の申し込みがあったことを教えてくれた。私は八人目で、私以降はもう受け付けないことにしたという。
 秋元常務と懇談させていただいてるとき、話が田村町の本店に及んだ。すでに社長は五島昇さんになられていたが、先代の五島慶太さんは戦争中、東条内閣の運輸通信大臣をなさっていた頃はよ〈大場〉にお越しいただいていた。そのことをお話しすると、
「じゃあ大場さん、五島社長に会いますか」
 と、秋元さんは言って下さった。
 この日、私は五島昇さんに直接お目にかかり、ご挨拶することができた。
 私が選ばれたと連絡があったのは、その一週間後であった。五島社長にお願いした折、〈大場〉のことは父から聞いて知っているとおっしやっていたから、私が選ばれたのも父秀吉のおかげであろう。
 秋元常務にお会いすると、これからは理髪にも新しい付加価値をつけるべきではないかと助言をいただいた。そこで私はかねてから思い浮かべていた計画をお話ししてみた。
「これからは全身美容が流行るでしょうから、そういうものを取り入れてみようと思っています」
 そう言うと、秋元さんも面白いと賛成して下さった。
 ちょうど東京オリンピックの後で、サウナがブームになりつつあった。私はこのサウナと理容を結びつけてみようと思い、ボックス型の個人サウナを購入した。そして赤坂東急ホテルの三階にオープンした店の一画に、このサウナを据えた。
 実は全身美容といっても、それほど真剣に考えていたものではなかった。秋元さんから何か企画と言われて咄嗟に答えたわけだが、理髪と共に始めてみると、なかなか好評だった。それに全身美容となると、二万五千円から三万円をいただける。昭和四十四年の当時、理髪料金が普通七百円くらいで、うちの新宿駅ビル店が千五百円、青山店千三百円そして赤坂店が三千円であった。マッサージのほうは、ホテル・テイトで昔とつた杵柄(きねづか)である。ちょうど景気がよく、外人の客がかなり多かった。
 ところが開店半年後にやっかいな問題が持ち上がった。
 保健所の検査があったときである。保健所員が店の奥にあったサウナ室に目をとめた。
「ほう、サウナなんて理容で初めてだな。待てよ、これは法規に抵触するんじやないかな……」
 こう言い出したのである。赤坂の店はフエイシヤルの部屋を広くとっていたので、それを半分潰し、待合室も狭くして、そこにサウナ室を作った。保健所の言い分では、覗き窓をこしらえろという。
「冗談じゃない。お客さんを監視するようなことはできませんよ」
 マッサージをするのは女性でなく、この私達である。そう力説したが、保健所員は規則の一点張りである。仕方なく、ドアを付け換えた。
 すると、しばらくして消防署の元締である消防庁からいきなり課長がやってきた。
「おたくはけしからん。こんな危いことでは営業は許されない」
 そう言うのである。私は安全のためにサウナにはガスでなく電気を使っていたのだが、それでも漏電の怖れがあるから十五センチの厚さの鉄扉をつけろという。店の一画にそんな防火扉をつけることは構造上、無理である。それに、もしそうしたら、保健所のほうはどうなるのか。
 私は今度は保健所に行った。鉄扉にしてもよいかと訊いてみると、保健所では開放の扉でないと許可できないという。私は頭へきてしまった。
「消防署では消防法規に違反しているから鉄扉をつけろという。ところが保健所ではそれではいけないという。お互いに言うことが矛盾しているじゃありませんか。鉄の扉に覗き窓が作れる道理はないのだから、私に営業するなということですか!」
 とうとう喧嘩をして、サウナのほうは止めてしまった。後にもう一軒、池袋のデパートに出店した理髪室でも、やはりサウナを備えたところ私と同じように保健所からうるさいことを言われ、止めてしまった例がある。どうやら、理容のほうでは許可させないように、指導が行なわれているとしか考えられない。
 全身美容のほうはそのような訳で、残念ながら中止に追い込まれてしまった。が、一種の賭のつもりでスタートさせた赤坂店は、二年半ほどで軌道に乗った。
 ちょうど、ホテル内の理髪室が価値を上げてきたからだろうと思う。これは世界的な傾向で、アメリカでもホテルだけは一流のバーバーが入り、お客さんも一流の方が見える。うちの赤坂店も同じことだったのであろう。
 赤坂店ができると、昔の大場の名を聞きつけて来て下さるお客さんも多かった。なかには青山の店に来て下さっていたお客さんが、赤坂のほうに来られることがあった。すると、赤坂店の料金をお払いいただく訳だが、今度青山店に戻ると、黙って赤坂店の料金を置いていって下さる。そういうお客さんもいた。
 この赤坂店を出して以来、私は∧大場)再興の確かな手応えを感じた。
 父は店をやるに当たって、高い料金をいただいた。恐らく日本一高い料金であっただろう。それは技術はもちろん、どこの店でも真似のできないサービスを提供しているという誇りからであった。と同時に、高い料金を払って来て下さるお客さんはそれだけの格をそなえており、そういう方の理髪をさせていただくことによって、理容師の側の人格も高まっていくと考えた。
 よく父はこう言っていたものである。
「どこへ行っても、一番高いものを食え。そうすりゃ、何かしら勉強になる」
 父はたんに贅沢をしろという意味でそう言ったのではない。そうそう金が続く訳はないのだから、いつもそうする訳にはいかない。が、一番高いものはそれだけ得るものがある。それを思えば決して高くはない、無駄ではないのだと言いたかったのであろう。その言葉は、父が高い料金設定を貫いたことと一脈通じるところがあるように思う。
 赤坂店を始めるようになって、私もどうやら父の姿勢を理解できるようになった。また、それだけ素晴らしいお客さんが付いて下さった。伝統という言葉を使えば、「最高のお客様にふさわしいサービス」こそ〈大場〉の伝統なのである。それがようやく復活しつつあった。

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