遥かなり昭和

第五章 〈大場〉再興
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青山の店は次第に軌道に乗ってきたが、それでも戦前のことを思うと寂しい限りだった。私は貧乏のどん底にあった頃も、秘かな夢を忘れたことがなかった。父が築き上げた、あの〈大場〉を再興することである。
 私には、父のようにいきなり自力で理想の店舗を建てるゆとりはなかった。青山の店も軌道に乗ったとはいえ、従業員の給料を払い、家賃と生活費を差し引くと、ほとんど手許には残らない。そこで、店のほうは店長に任せ、私自身はどこか一流のホテルで仕事をさせてもらえないものだろうかと考えた。
 その頃、堤康次郎さんが赤坂の紀尾井町の土地と建物を買い取って、ホテルにするという話を耳にした。私は早速、支配人の丹羽さんにお会いし、お願いしてみたが、理髪室はまだ作る予定はないとのことだった。
「それなら、従業員のための厚生でもいいから、やらせていただけませんか」
 私はそう頼んでみた。かつて帝国ホテルも最初は厚生用であったのが、父が引受けてのちに立派な理髪室になっている。
 すると丹羽支配人は、
「いや、大場さんにやってもらうなら、ただの従業員相手ではもったいない。宮さんが使っていたお湯殿を開放しましょう」
 と、言って下さった。ただし、どのくらい客が来るかは責任は負えない、宿泊客で希望者があれば斡旋しようという条件であった。来るのも一日置きでよいという。
 ご承知の方も多いと思うが、赤坂プリンスホテルはもともと北白川宮の御殿で、日韓併合のときに朝鮮の李王殿下が日本の宮様として入ることになって、爾来、李王家が使っていた。それが戦後、いったん国に返され、改めて西武の創設者である堤さんが買い取ったのである。
 こうして始まったので、正式な理髪室があるわけではなかった。ただし、仮に使う湯殿といっても宮様が使っていたものであるから、それは立派である。そこに理髪用の椅子を持ち込んだ。作家の船橋聖一さんも常連になっていただいたが、あの頃は書く場所がなくてホテル住いをしていた作家が多かった。こんな具合だから、お客さんも一日二、三人といったところだった。
 昭和三十三年の正月のことだったと思う。
 たまたま、私がフロントに顔を出すと、ちょうど「新宿民衆駅設立委員会打合せ会」という会合の案内板が出ていた。新宿民衆駅すなわち現在の新宿ステーションビルである。
 民衆駅とは国鉄の駅の上に民間資本でビルを造り、ショッピングセンターにしようという再開発計画であった。これは当然利害が絡んでくる。当時、新宿では戦後の闇市以来の暴力団の抗争が続いていた。ともかく伊勢丹が名乗り出ても、高島屋や三越が名乗り出ても話はまとまらない。この人なら、と担ぎ出されたのは浜野茂さんだった。浜野さんは先代以来「新宿将軍」と呼ばれ、今日の新宿を作った第一の功労者だった方で、番衆町(今の厚生年金会館一帯)の大地主だった。民衆駅はこの浜野さんを中心に準備が進められていたのである。
 当時の私には、そんな事情は知る由もなかったが、民衆駅と聞いて、これだ、と閃くものがあった。
 私は早速、丹羽支配人に設立委員会の方に会わせてほしいと頼み、横尾さんという事務長に紹介してもらった。横尾事務長は私の希望を聞いて、浜野さんに伝えておくと約束してくれた。
「ほら、あの方が浜野さんです。御紹介してもいいですよ」
 横尾さんはそう言って、気品のある素晴しい紳士を教えてくれた。浜野さんはロビーで他の方と談笑されていたが、一目見るだけで自然に頭が下がる方であった。
「いえ、私にはとてもあんなご立派な方にはお会いできません。横尾さんからお話しして下さい」
 その日は、そうお願いして引き退がった。
 それから一か月ほど経ってからである。青山の店に突然、立派な自動車から一人の紳士が降りてきた。ちょうど手が空いていたので、私が調髪してさしあげた。
 その日はそれでお帰りになり、しばらくして、また見えた。気に入ってくださったと見え、私を指名された。ところが終わってからもすぐ帰らず、一服吸わせてくれという。お茶を淹れてさしあげたが、それでもまだお帰りにならない。
「ご主人にちょつとお訊きしたいが、あなた、大場さんというお名前だが、田村町にあった大場さんとはどういうご関係ですか」
 そう訊かれて、田村町の大場は父であり、現在、大場はこの店しかないと返事をした。
「そうですか、息子さんでしたか」
 と頷くと、その紳士はそのままお帰りになった。
 その方が初めて名乗ったのは、次にまた見えたときだった。
「実は宮原というもので、今度、民衆駅を作るに当たって、浜野社長の下で常務として仕事することになっています。この間、民衆駅で店をやりたいと申し込まれたのは、あなたですね」
 私はびっくりしてしまった。
「さようでございますか。何とぞ、ひとつお願いいたします」
「本当に店を出す気持ちがおありですか」
 そう訊かれて、私はこの機会を逃がしてはならないと思い、とっさにこう答えていた。
「はい、ぜひお願い致したいのです。いまはここだけで資金もありませんがなんとかして昔の大場を再建したいと日夜手を合わせております……」
 宮原さんは黙って頷かれた。店の構えをご覧になれば、田村町の店とは雲泥の差であることは一目瞭然であったし、青山高樹町はまだあの時分、家がポツリポツリと建っているだけで蔵が残っていた。ずいぶん落ちぶれたものだと気の毒に思われたのかもしれない。
「できるかぎり、お力になりましょう」
 そう、おっしやって下さった。
 詳しく伺うと、宮原さんはかつて近衛内閣時代に蔵相をされていた池田成彬さんの私設秘書でいらした。池田さんはとてもおしゃれな方で、一週間に一度は多忙な政務の間を縫って田村町の店にお越しいただいていた。シャンプーであるとか、フェイシャルあるいはマニキュアを所望され、ストレス解消をなさっていられたようである。
 その池田さんに付いて来られたのが宮原さんだった。宮原さんもおしやれで、〈大場〉で頭を刈りたかったが、池田さんと一緒では気が引ける。仕方なく、別室の待合室で待っていた。そんなときによく父が自分でお茶を差し上げたらしい。若い者にやらせても済むものを主人自らがするというので、大変印象深かったようである。
 偶然というのは、重なる。
 宮原さんは大田区の東雪ケ谷にお住いで、仮建設事務所があった赤坂プリンスホテルに通勤の途中に私の店がある日赤通りを通っていらした。信号待ちで停まっていると、〈大場〉という看板が見える。昔の田村町の店を知る宮原さんは、通り過ぎる度に気になっていたようだ。
 初めてお見えになった日は、日赤通りが渋滞し、車がつながってしまったときらしい。窓から私の店を見たとき、横尾事務長から〈大場〉が民衆駅に出店希望をしていると聞いたことをふと思い出した。それにしては小さい店だと半信半疑ながら、とりあえず車から降りてご自分で仕事ぶりを確かめようとしたのである。
 この宮原さんには大変お世話になった。もし、宮原さんのご尽力がなければ、私も新宿の駅ビルには出店することができなかっただろう。金も力もなかったが、幸い私には父の残した信用があった。あのときほど、親の有難味を感じたことはない。
 ところで、民衆駅は予定地そのものがなかなか決まらなかった。次々に名乗りを上げるグループのどこに東京都が許認可をするかも決まらない。水面下でずいぶん揉み合いがあって、ようやく高島屋系統と伊勢丹系統の二つになった。その段階で浜野さんが社長、副社長に伊勢丹、高島屋、西武の各社長といった錚々たるメンバーが名を連ねた。主軸は国鉄首脳陣それに地元有力商店会の人たちが合流した。こうすっきり収まったのは、浜野さんの人徳があってこそだろう。
 が、私が出店できるようになるまでには、まだまだ越えなければならないハードルが多々あった。

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