遥かなり昭和

第五章 〈大場〉再興
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昭和二十八年、私は高田馬場に念願の店を持った。資金は母が、金沢八景の土地を処分して得た一部を提供してくれた。当時の金で百三十万円だった。
 今思うと、もっと慎重に立地条件を考えるべきであった。高田馬場の店は、美容をやっていた姉が捜してくれたものを、ろくに調べもせずに決めてしまった。世間知らずで、軽率と言われればそれまでだが、ともかく一日でも早く店を出したかったから、とてもそこまで気持ちが廻らなかった。
 場所は駅のすぐ近くで、戸塚第二小学校の前、早稲田通りからちょっと引っ込んだところにあった。店は薬局の半地下になっていた。
 私には戦前の田村町の店が忘れられなかった。店は私の出征中に取り壊され、その店を造った父も前年、世を去っていた。もはや、あのような贅沢な造りは出来る時代ではなくなっていたし、私には資金も僅かしかない。それでも、少しでも昔の店に近づけるように、出来る範囲で設備に金をかけ、タオルは森に注文し、化粧品もどこへ出しても恥ずかしくないものを取り揃えた。
 椅子は四台で、職人も四人抱えた。料金は周りが百五十円のところを二百円とした。
 準備万端整え、いざ開店してみると、ともかく客が入らない。高田馬場なら早稲田が近いし、学生が来てくれるだろうと思ったが、これが当て外れだった。あの当時、早稲田の学生は皆貧乏で、金がなかった。
 それでも、次第に角帽をかぶった学生さんも増えた。常連の一人に渡辺さんといって、とても愉快な学生さんがいた。その人が十年ほど前、船橋の市長になった。昔を思い出してびっくりしていると、市長を辞めてからは船橋の玉姫殿という結婚式場チェーンを始められた。今でもお付き合いをしている。
 そんなお客さんもいたが、入りがよくないのは変わりなかった。やむを得ず、周りの商店街に割引券を配ることまでしたが、それでも上向かない。悪いときには一日に五人ということさえあった。これで四人職人を雇い、家賃を払い、母と一緒に住んでいる娘三人に仕送りをするのだから、とてもやっていけない。
 その頃、かつてロサンジェルスに渡って洋服屋をやっていた伯父吉次郎が日本に帰り、やはり高田馬場の高田外語の近くにアパートを建てて生活していた。私と妻、幼い長男はそこに一部屋を借りて暮らしていたので、その家賃もいる。僅かに手許に残しておいた金も出ていく一方であった。
 明らかに失敗だった。私は昔通りの考えで、高級な店にすれば料金は高くて当然であるし、お客さんは必ずついてくれると信じていた。その考え自体は間違ってはいないと今でも思っているが、立地条件などを無視してやろうとしたところが、私の世間知らずであったのかもしれない。
 悪いことは重なるもので、高田馬場に店を出した年にスターリンが死んで、いわゆるスターリン暴落が起こった。私にも父が残してくれた幾許かの株券があったが、皆、大幅に下がってしまった。
 高田馬場時代は、まさに貧乏のどん底であった。家内の母が信州から来て、爪に火をとぼすような生活ぶりに思わず涙をこぼしたそうだが、ともかく金がなかった。金沢八景で生活していた時分も家内には苦労をかけたが、高田馬場での失敗は私がようやく自分の店を持って張り切ったときだけに、参った。そんな失意の生活が四年ほど続いただろうか。
 私にも、立地条件が悪いことはわかっていた。かと言って、どこならいいという考えも浮かばなかった。ただ、このままではそれこそ一家心中でもしなければならない破目に陥ることはわかっていた。なんとかしなければ……。そんなことばかり考えていた。
 ある日、バスに乗っていて、ふと手にしていた朝日新聞の不動産広告に目をやった。その瞬間、青山という地名が目に飛び込んできた。
 そうだ、とはたと膝を打った。青山といえば私が近衝連隊新兵として生活を送っていた頃、斥候勤務とか陣中勤務でよく演習に来ていた馴染の地であった。その時分は父が田村町を初め、幾つも店を持っていたから真剣に考えた訳ではなかったが、大場理髪舗の息子として、この屋敷町なら店を出すといいな、と漠然と考えたことがあった。バスの中で青山の地名を見た途端、二十数年振りにそのことを思い出した。高田馬場からは辰巳に当たるから方角もいい。
 新聞広告には、青山高樹町の貸店舗で家賃が二万八千円とあった。私はその足で広告主の麻布の不動産屋へ行った。
「あそこですか……もう決まってると思いますが」
 そう言われたが、見るだけでもと案内してもらった。
 場所は高樹町の日赤通り商店街にあって、店の前は二千坪はどの寺内大将の屋敷跡で、原っぱになっていた。周りはまだ余り家も建っていないから風通しもよかった。
 貸店舗というのは、一階が店舗で二階に四部屋ほど付いていた。前の住人はここで洋食屋をやっていたらしく、床はコンクリート床であった。後で知ったところによると、店の経営に失敗し、息子が自殺してしまったらしい。それを知っていれば借りなかったかもしれないが、ともかく私のほうは一目見て気に入ってしまった。
 高田馬場の店は七千円だったから、月二万八千円の家賃は痛いが、土地柄と二階に部屋があることを思えば、それ程でもないように思えた。ちょうど二十二坪ほどあったから、理髪の店舗としても理想的だ。
 窓を開けてみると、隣家の息子が見えた。小学校六年生で慶応の幼稚合に通っているというが、高田馬場あたりで見かける痩せこけた小学生と違って、丸々と太っている。こんなに違うものかと、私は驚いた。ということは、やはり青山近辺は住む人間の層が違うのだろうと思った。私の商売には好都合だ。
 私はその場で借りたいと申し出た。実はもう借り手は現われていたらしいが、その人間が最後になって躊躇して返事を渋っていた。おかげで、文字通り一足違いで借りることができた。昭和三十二年のことである。
 店を借りたのはいいが、家賃の負担が前より大きい。そこで、二階の四部屋を活用することを考えた。
 賄い付きの下宿をやったらどうか、と家内は言い出した。実家が旅館をやっていたため、家内には料理の心得がある。早速、二階の四部屋のうち、一番いい部屋は雇い入れる技術者のために確保しておき、残り三部屋を貸すことにした。家族は新たな娘が生まれて四人になっていたが、一階の店の奥の一部屋で我慢することにした。
 幸運というのは重なるものである。ちょうどその頃、昔の家庭教師の草野さんと偶然、銀座で出会った。草野さんは私の受験騒動を機に父から追い出されて以来、音信がなかったが、その間、東大建築学部を卒業、八幡製鉄から満州に派遣され、工員千名以上の工場長をやっていた。戦後、ソ連に抑留されて昭和三十年ようやく帰国し、八幡の関連会社の社長に就任できたものの、社宅までは用意してもらえず、困っていたらしい。
「肩書きだけは立派なものをもらったけど、住む所がない。どこか部屋を貸してくれるところを知らないかね」
 そう訊かれて下宿屋の計画を話すと、草野さんは大喜びで、早速移ってきた。あとの二部屋もすぐ埋まった。こうして賄い付き下宿を始めたおかげで、店の家賃は高田馬場と変わらないで済んだ。
 この頃、私は全理連(全国理容連合会)の講師として、各地へ講習に出かける機会が多くなっていた。これも経済的に大きな助けとなった。
 当時、講師には二等車の手当が支給された。ボックスになった一等車から木の椅子の三等車まで分かれていた時代である。私は三等車に乗って、その差額を浮かした。
 また、宿泊代を節約するために、三段寝台の一番安い席を買い、朝着いて講習をし、歓迎の宴会を終えると、また夜行で帰り、その足で店に立った。
 もっとも、皆さんは華やかなりし時代の父のことを知っていて、その息子がこれほど貧乏しているとは思わない。だから、現地に着くとわざわざ迎えを寄こしたりすることもある。当然、迎えの人は二等車の前で待っているので、私は下車駅が近づくと三等事から二等車の出口に移って、そこから降りたものである。
 また、他の講師の人と同じ夜行に乗り合わせ、手洗いでバッタリ顔を合わせてしまったこともある。
「大場さん、こっちじやなかったんですか」
 そう言われたときはバツが悪く、さすがに情けなかった。相手は二等車で凄巻きが備わっているから寝巻姿なのだが、三等車は着の身者のままなのである。
 一番困るのは、気を利かせて宿を取っておいてくれることである。払うのはこちらだから有難迷惑このうえない。そこで、黙って行くことにして、夜行で朝の六時頃には現地の駅に着く。講習が始まるのは九時頃だから、たっぷり時間がある。売店でパンと牛乳を買い、新聞を読み、駅で時間をつぶすのである。そして時間が来ると、何食わぬ顔をして、着いたばかりのように講習会に出た。まさかあの大場秀吉の息子がこんな苦労をしていようとは、誰も想像はしなかっただろう。
 こうして浮かした金は、家内がすぐ日赤病院の近くにあった郵便局に持って行って預金した。これは後に、新宿ステーションビルに店を出す際の貴重な資金となった。講師業はまさに当時の私にとって命の恩人であった。
 方角というのは、本当に大事だとつくづく思った。青山に店を移してから、すべてがよい方に向かい始めた。
 最大の理由は、お客様に恵まれたことだ。
 青山高樹町といえば、戦前までは少将級以上の軍人や華族の住んだ屋敷街であった。その方々が〈大場〉を覚えていて、足を運んで下さった。そのお子さん、お孫さんもいらっしやる。
 青山の店と共に、ようやく私の戦後はスタートしたのであった。

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