遥かなり昭和

第五章 〈大場〉再興
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復員して一年近くが経とうとする昭和二十二年四月であった。
 ある日、鈴木さんと名乗る方が訪ねてきた。横浜の弘明寺で理容店をやっていて、話を聞いてみると、父の先代大場勘之肋の最後の弟子であるという。勘之肋と父は養子縁組であるから血が繋がっている訳ではなく、互いの弟子達ははまるで交流がなかった。が、鈴木さんはどこかで私の噂を聞き、仕事がなく困っているのを知って気の毒に思ったらしい。わざわざ、金沢八景の家を捜し当て、訪ねてくれたのである。
 話によると、宮内庁の帝室林野局が宮内省から大蔵省に移官され、貿易庁のホテルに生まれ変わるという。貿易庁では、今後商用で来日する外人のために直営ホテルを造ろうとしていた。これが「ホテル・テイト」、現在、皇居前にあるパレスホテルである。
「詳しくは知らないが、ホテルを造るとすれば、当然理髪室もできると思いますよ。大場さんなら適任だから、ともかく支配人に会ってみたらどうですか……」
 そう教えてくれた。当時、家は広かったとはいえ、塀は壊れたままであったし、建物もあちこち痛んだままだった。私は鈴木さんに恥ずかしくて居たたまれない思いがした。ともかく仕事を見つけて金を稼がねばと、翌朝早速、京浜急行に乗って出かけて行った。
 戦争直後のあの時分、帝国ホテルなどは占領軍に接収されていたので、ここが初めてのホテルとなるはずであった。そのためであろう、私が行ってみると、もう五、六百人が殺到し、なんとかしてボーイに、あるいはホテルマンになりたいと長蛇の列をなしていた。
 順番を待っていたが、埒があかない。このままでは支配人に会えるのは何日先になるかわからなかった。そこで、私が理髪の仕事で一般の人とは違うことを説明して、ぜひ支配人会わせて欲しいと頼んででみた。
 幸い、支配人にはすぐ取り次いでもらえた。すでに四、五人申し込みが来ているが、最終的には最適な人材を選ぶと告げられ、私は持参した履歴書を見せた。近藤支配人は、
「ほう、陛下の御理髪係をやっていたんですか。結構ですね。で、英語のほうは……ホテルですから英語ができなくては」
 今はもう使う機会もなく錆ついてしまったが、あの時分は英語は結構話せた。そんなこともあったし、他の申込者は自分が権利を取って弟子にやらせようとする人が多かった。私は自分でやるのだから、強みだ。結局、私に決まった。
「月給は一万五千円。ほかに手当が千円くらい付くかもしれませんが、それだけです。いいですか!」
 そう念を押されたが、ともかく仕事ができればよかったので、贅沢は言っていられなかった。
 このとき、「ホテル・テイト」と同時に丸の内にやはり貿易庁直営の「ホテル・トウキョウ」も開業することになった。これは現在の住友銀行である。ここの理髪室もやるように言われたが、身体は一つしかない。そこでこちらは、父の古い弟子で、店が戦災で焼けて困っている蜂須賀常二氏に譲ることにした。
 ホテル・テイトの理髪室は十六坪ほどしかなかったが、ホテル自体が戦前のしっかりした造りで天井も高かった。現在のパレスホテルはいったん壊して建て替えたもので、当時は三階建てで客室も四十五室ほどだったと記憶している。ともかくその理髪室に椅子を三台入れた。これはタカラで作らせた外国人向けの特注椅子だった。あの時分をご記憶の方ならおわかりいただけるだろうが、日本人は皆ガリガリに痩せていたが、外人は皆、栄養がついてデップリ太っていたものである。
 理髪料金に関して、こんな思い出がある。
 当時、アメリカ進駐軍ではへアカット料金が二十五セントだった。一ドルが三百六十円だったとはいえ、換算すると百円を切ってしまう。で、私は料金設定の話し合いで、六百五十円を呈示した。支配人は目を丸くした。
「大場さん、そりゃ、高過ぎますよ」
「でも私は、陛下の御用を務めた身です。少なくとも、欧米の一流とまでいかなくても、二流並みの料金でなくては商売する気はありません」
 そう言うと、支配人は考え込んでしまった。私の履歴を知ってはいるが、やはり高過ぎると思ったのだろう。六百五十円はドルに換算すると、一ドル八十セント。進駐軍の相場が二十五セントであることを考えれば、せめて一ドル五十セントにしてくれないかと、言ってきた。しかし私は、逆にこう進言した。
「日本だって、いつまでもこんなに惨めな状態である筈がない。もっと胸を張れるよう、絶対に六百五十円にして下さい」
 とうとう、六百五十円で通してしまった。当時、東京でこの値段を取るところはどこにもなかった。ただし、いかに料金が高かろうと、こちらは月給だから収入には関係ない。私がその料金に固執したのは、父の理髪に対する考え方にほかならなかったのである。
 料金は最高であっても、月給制であったから苦しかった。
 私一人では客を捌ききれないれない。そこで、技術者を二人追加してもらおうと考えた。ところがホテル側は、その二人の給料は払ってくれない。お役所仕事というもので、「あなたが雇うのならば認めてもよいが、給料は一切払わない」というのである。そのため、私は一万五千円少々をもらって、その二人に一万五千円ずつ、計三万円を払わなくてはならなかった。
 普通なら、大変な赤字であるが、チップ収入がかなりあった。それでもやっていけず、まもなく指圧を始めることになった。
 ホテルの宿泊客は外人バイヤーが主であった。シェーブは注文する人が少なく、ほとんどがカットとシャンプーであったが、日本人は仕事が丁寧で親切だと喜ばれた。ことにシャンプーは日本人のほうが遥かに上手であったらしく、なかにはシヤンプーだけをやりに来る人もいた。特にへッドマッサージば父直伝の特技だったから評判がよかったようだ。またシェーブ後の顔のマッサージも行なった。父が伝えたキャンブル・マッサージである。これも好評で、そのうちにこのフェイシャルだけをやってほしいという客も出てきた。
 そんなある日、東京駅を出ると、駅前広場に大変な人だかりがあった。覗き込んでみると、寝台を置いて、指圧のデモンストレーションをしていた。
 やっていたのは、後に「指圧の心は母心」で有名になった浪越徳治郎さんだった。
 これだ、と思った。頭のマッサージがあれほど喜ばれるなら、全身のマッサージはもっと需要があるだろう。浪越さんに話してみると、
「大場さん、指圧はいいですよ。教えてあげるからぜひおやりなさい」
 と、言ってくれた。当時、伝通院に教習所があって、私は二か月間、仕事を終えてから浪越さんにみっちり教わった。
 この指圧を覚えたおかげで、私は苦境を救われることになった。理髪の本業のほかに、指圧の副業ができたのである。その代わり、文字通り馬車馬の如く、猛烈に働いた。
 朝は四時半に起きて、京浜急行の五時十分発の一番電車に乗った。夏はまだいいが、冬の寒い日は辛い。一番電車に乗るのは、大きな籠を担いだ買い出しのおばさんばかりで、背広姿など私一人しかいない。
「旦那さん、いつもお早いですね。よっばどいい買いものでもあるんですか」
 こんな風に声をかけられて苦笑したのも、一度や二度ではなかった。勤めているんですと答えても、なかなか信用してもらえなかったものである。
 ホテルには六時半頃に着く。するとボーイが何号室の客から指圧の注文があったと教えてくれる。八時頃までに、だいたい二人か三人はこなすことができる。八時半からは本業の理髪である。
 夕方六時に理髪室を終えると、簡単に腹ごしらえをして、十一時まで再び指圧をやって最終電車で帰っていく。こんな働きづめの生活が休みなく統いた。
 あの時分ほまだ、百円札の時代だった。指圧は初め、いくらもらったらいいかわからなかったが、普通が三百円と聞いて、ホテル料金で五百円とした。すると、皆三百円くらいのチップをつけてくれる。なかには五百円のチップを出す客もいた。そのうちに千円札ができると、チップ込みで千円という客が多くなった。
 ホテル・テイトはユダヤ糸バイヤーの客が多かった。私は外人客は見慣れていたから、ユダヤ人はすぐわかる。戦後の経済復興の波に乗って、皆、羽振りがよく、皆金遣いが荒かった。今でもよく覚えているが、時々停電するとロウソク代わりに千円札を燃やして物を捜した。そんな勿体ないことを平気でやっていた。
 それにしても、昭和二十年代は敗戦国民の悲哀をいやというほど見せつけられたものである。私など、ホテル・テイトから夜の十時過ぎに東京駅に帰っていくと、あの辺のビル街はいい所はアメリカ軍に接収されていて、旨そうにこれみよがしに食べているのが、窓越しに見えた。私のところなど、家族の一員となった今の妻が、さんまを一人一匹ずつ食べる余裕がなく必ず半身ずつだったと今でも語っているが、程度の差こそあれ、日本人は貧しかった。
 ところが、彼等は自分達が食べるだけでなく、私が通る頃には戸口に出て、犬に食わしていた。涙がにじむほど悔しかった。日本人はその犬が食べている肉を食べようにも食べられない。そんな時代だった。
 開業して三年後、ホテル・テイトは貿易庁の直営から東京会館に払い下げられ、民営になった。それを機に、私は十万円で店の権利を買い取った。
 晴れてオーナーになったものの、ホテルには毎月家賃として四万五千円払わなくてはならない。二人の職人の給料が三万円。当時の月の売り上げは十万円ほどであったから、手許にはそう残らない。あまり苦しいので、ホテルの家賃は四万円に負けてもらったが、それでも収入は三万円ほどにしかならなかった。
 金沢八景には両親がいた。先妻との間の娘たちは鎌倉女学院に通っていたし、二十六年には長男の隆吉が生まれた。相変わらず、爺やが野菜はすべて作ってくれたが、暮らしが苦しいことには変わりなかった。それを埋めるには、早朝と夜の指圧に精を出すしかなかった。そんな私を、父は、毎夜決して先に休まず、待っていた。あの頃、私が四十代前半であったから、父は七十の半ばを越していた。それでも、どんなに寒い冬といえども、たとえ炬燵で居眠りをすることはあっても、父は私が帰るまでは決して床に就くことはしなかった。戦前の店をすべて失い、私に苦労させているのが済まなかったのだろうか。帰国直後の父と私のわだかまりは、もうすっかり消えていた。
 私が帰るのは真夜中になっていたが、父が待っていることを知っているから、まず父の部屋に行く。廊下に正座して、障子を開け、
「お父さん、ただ今、帰りました。」
 と告げると、父は、
「あ、帰ったかい。ご苦労だったね」
 と声をかけてくれる。
 この扶拶があって、初めて父は休み、私は晩のご飯を食べるのだった。
 こんな生活を何年統けただろうか。ともかく真夜中に帰り、朝五時前に出かけた。そして、理髪と指圧の二つの仕事をこなしていた。私自身は家族を養わなければならないという緊張感があったから何とも思わなかったが、目に見えぬ疲労が溜まりに溜まっていたようだった。
 あるとき、急に目がおかしくなった。障子の棧が幾つにもで重なって、見えなくなってしまった。理髪が職業であるから、大変なショックであった。
 白内障と診断され、一時はどうなることかと思ったが、幸い二か月ほど通院して事無きを得た。睡眠時間が毎日四時間しかなかったから、今から思えば、明かに過労だった。それでも耐えることができたのは、体が丈夫だったからにほかならないと思う。こればかりは軍隊生活で鍛えられたおかげである。
 昭和二十七年、父秀吉が亡くなった。享年七十九歳であった。
 その翌年、四百坪あった金沢八景の屋敷を半分処分し、残り二百坪の土地に母の隠居用に家を建てた。長年、仕えてくれた爺やも父の死を機に鳥取に帰って行った。私もそろそろ独立して店を持ちたくなった。
 ホナル・テイトを辞めたくなったのは、ほかにも理由がある。ホテルはユダヤ系外人の客が多かったので、従業員も金まわりがよくなり、その隙に共産党系の組合ができた。そのうち民営化になって支配人に元大名の家柄の橘さんという人が来ると、「あいつは元大名で人民を搾取した張本人……」
と、いじめ始めた。橘さんは元子爵で、日本郵船の事務長をして定年になったところを、ホテル・テイトから請われ、自分の鎧やかぶとまで全財産を処分して上京してきた。その支配人をいじめ抜いて、ストをやる。従業員たちは金まわりがよかったから、遊んでいても困らない。そこで、お客さんの迷惑も考えずに、すぐ赤旗を振った。
 そんな事情を、私はフロントに行ってよく見ていた。時々、お客さんから苦情も受けた。で、たまたま組合の親玉と喧嘩してしまった。
 ホテルの店のほうは昭和二十八年まで経営はしていたが、こんなことがあってからすっかり熱意を失ってしまった。それに私自身、外人バイヤー相手のチップ収入に頼るのではなく、自分の力で日本人のお客さんを相手に仕事をしたくなっていた。

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