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遥かなり昭和
第五章 〈大場〉再興 |
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復員して目にした東京は見渡す限り焼け跡が広がり、闇市だけが繁盛を見せていた。食糧難とあって誰もが飢えていたが、それでも平和な時代を迎えて廃墟の中から立ち上がろうと、町は活気を帯びていた。 一方の私は、抜け殻のようで、もう気力がなにも残っていなかった。「戦地ボケ」というものだろうか。かろうじて残っていた気力も、あの輸送船のコレラ騒ぎの心労ですべて奪われてしまった。 その上、出征中に〈大場〉はまったく様変わりしていた。私が出征するときに、大場は田村町の本店理・美容室のほかに浅草松屋(理・美容室)、銀座松屋(美容室)、伊勢丹(理容室)、帝国ホテル(理・美容室)に支店を持ち、計百三十五人の従業員をかかえていた。ところが、復員してみると本店は取り壊されて跡形もなかった。戦時中隣りの日産館ビルが外務省に徴用されたため、空襲の類焼を恐れて町内一帯が取り壊しを命じられたのであった。これは仕方なかったが、ほかの四支店はいつのまにか他人名義に移されていた。 私の出征後、父は母を伴って信州に疎開した。その際、〈大場〉の運営を一切、弟子の海津昇氏に白紙委任したのである。海津氏ををれほど信用していたのであろうか、あるいは私がもう戦地から生きては還れまいと諦めたのであろうか。どうしてそんなことをしてしまったのか理解に苦しむのだが、ともかく海津氏は浅草松屋は横山光次郎氏、銀座松屋は米軍接収でやむを得ないにせよ、伊勢丹は伊藤英雄氏、帝国ホテル理髪室は及川川吉氏、と、子飼いの弟子たちに店を与え、名義を移し換えてしまった。辛うじて帝国ホテルの美容室だけは引き続き、姉が持っていた。 唯一、大場の名義を留めていたのは、田村町の土地──正確に言えば借地であった。私は復員してくると早速、訪ねてみた。すると、昔の顔馴染みが、「栄ちやん、早く自分の土地にしめ縄を張っちゃわなくては駄目だよ」と教えてくれた。昔の住人は皆そうしていたらしい。 当時、父はまだ信州に疎開したままだった。私はその状況を知らせて、昔通り借地として使うつもりだと告げると、父からは、あの土地はもう裁判にかかっているので勝手なことはするなと言ってきた。どうやら旧財閥の不動産会社が買い占め工作を始めていたらしい。その件も海津氏に一任したままであるという。 私は心底、憤りを感じ、当時東京の弁護士会の会長をしていた馬越旺助先生に相談した。すると、当然うちのほうに権利があるから、取り戻してくれるという話だった。その代わり、九十坪あるうち三十坪を使わせてくれないかという。もちろん、異存はなかった。 父も喜んでくれると思って、信州に飛んで行った。ところが、父は喜ぶどころか、ひどく怒った。 「何てことをしてくれたんだ! 裁判はもう進んでいるんだから、余計なことをしなくていい」 そして、私が信州を去ったあと、すぐに海津氏に手を打たせ、相手の言いなりの五万円で借地権を手放してしまった。かつて陛下の初代御理髪係であり、〈大場〉の名を冠した本店、支店を誇った父は、この「五万円」を最後に一切の店を手放してしまった。従って、その息子である私には、もはや仕事をしようにも場所さえなかったのである。 加えて、私自身は家庭にも恵まれていなかった。実は昭和十一年、私は甲府のさる実業家の娘と結婚し、三人の娘をもうけていた。その実業家が店の客であった縁だが、妻はまったくのお嬢さん育ちで、白足袋ひとつ洗えない。当然、働き者であった私の母とは反りが合わなかった。それに私自身、仕事が忙しくて家庭を顧みる余裕はなく、二度にわたって外地にも出征していた。昭和十六年に帰還した折など、自分の子供が「知らないおじさん」と言ってなつこうとしなかったのを覚えている。 復員当時、両親が信州の疎開先に留まっていたことはすでに述べた。三人の娘は祖父母と一緒に信州に住み、妻と妻の父が、金沢八景の家に住んでいた。 金沢八景の家とは、父が戦前に建てたもので、敷地が四百坪あり、海がすぐ前で、芝生の庭の向こうには入江から船が出ていくのがよく見えた。廊下は一間幅もあり、それは広い家で離れもあった。両親はここに住んで田村町の店に通っていたが、疎開で信州へ行ってからは妻が住み、甲府を焼け出されて住む所のなくなった妻の父が移ってきた。復員してきた私は、取り敢えずこの家に住んだ。 復員はしたものの、店がなくなっていたから、理髪の仕事はできなかった。出征によって陛下の御理髪係を辞した私は、戦争中はずっと毎月九十五円の戦時手当てが出ていたが、復員と同時にそれは停まった。翌六月には宮内庁に挨拶に伺い、「副理髪係」に任命されたが、こちらは無給で、その上、GHQから「副」は無用であるという理由で廃止させられてしまった。 戦前から宮内省では御理髪係のみならず、すべてのお役目に、「副」を設けていた。これは名誉職のようなもので、普段はお務めしない代わりに無給が原則であった。杓子定規に考えるアメリカ人にはこれが理解できない。「副」を任命するからには給料を払わねばならず、無駄であると言ってきたらしい。ちなみに、陛下の御理髪係は私の後は海津氏が奉仕し以後十八年間一人で通した。そして、自分の後任には大場秀吉の弟子である石井幸家氏を推薦した。 ともかく、こんな事情であったから、収入の途がない。なんとか仕事をできないだろうかと、かつての父の弟子達を訪ねたが、剣もほろろで誰も相手にしてくれなかった。 確かに無理もなかっただろう。当時は誰も自分が食べていくのに精一杯で、他人の事など構っていられる余裕などなかった。それに私は大場の「若旦那」という煙ったい存在で、将校として外地へ出征していた。 「将校っていうのは威張ってさんざんいい思いをしてきた。戦争に負けたのは、あいつらのせいじゃないか」 私の体験は決してそんな甘いものではなかったのだが、戦後になるとこんな中傷をする人間も出てきた。父の弟子達はそうした風潮から私を避けたこともあろう。また、私が行けば店を返してくれと言われはしないか、昔の誼(よしみ)で飯を奢らなくてはいけないのではないか、とも心配したのだろう。どこも、態のいい玄関払いだった。海津氏だけは時々、食事をご馳走してくれたが、これは名目だけだが義兄という立場にあり、人間として温か味のある人だったからだろう。今は亡き海津氏の名誉のために付け加えておけば、海津氏自身は父の財産を奪ったり、支店を勝手に他の弟子名義にして金を取ったりした訳ではなかった。ただ、正統な後継者である私の存在を一切無視して事を進めたために、父と私──大場家は戦後大変苦しい歩みを余儀なくされたのである。 この頃、こんなこともあった。やはり父の弟子で中央理容学校の初代校長になった斎藤隆一さんが、私の窮状を見かねて、理容協会の本部が持っていた土地の一画を使わせてもらったらよいではないか、と助言してくれた。本部は本郷御茶ノ水の聖橋にあった。 理容協会と言っても、もう知る人は少なくなった。これは明治三十九年、父と篠療定吉、小坂巳之助、船越景輝、坂本岩三郎といった一会(はじめかい)の人々が中心となって組織した「大日本美髪会」のことで、理髪技術の向上を目的とした研究団体だった。その会長になったのが長野の地主の息子で、一旗上げようと上京していた太田重之助さんだった。のち、重之助さんが亡くなると、その息子重道さんに会長を継いでもらった。 戦前には、技術を学ぼうと上京する理髪師が多かった。初めは本郷の協会本部に泊めていたが、次第に手狭になって足立区の梅田に宿泊施設を作り、たまたま病人が出たことから診療室を併設した。そうした費用は会の人が全国行脚し、自ら持ち寄って集めた。ところが終戦になって協会がなくなると、重道さんは梅田の施設を病院に変えてしまった。二人の息子を医大に上げて始めたのが、今日の梅田病院である。おかげで、父は協会の仲間から恨まれた。重道さんが協会の土地を私物化したのは父も共謀であったかのように誹謗する声も出た。 斎藤さんが大場の再興のために頼んでみたらと言ってくれたのは、この協会本部の土地だった。重道さんとの話し合いには、父のさらに古い弟子である小川滝三郎さんが同行し、当時の私の事情を説明して、使っていない協会本部の一画を当座の間、貸してもらえないだろうかと頼んでくれた。 しかし、重道さんは、今はあそこは戦後のドサクサで、もう自分達の自由にならない、だから貸す訳にはいかない、とうまく逃げた。のちに協会本部も全部太田さんの名義になってしまったから、それは単なる口実にすぎなかった。 (あんた、誰のために今日のようになれたのか。こんな立派な病院を作れたのも、父の大場秀吉が協会のためにと思って、身銭を切ってまでも梅田の土地を入手したからではないのか……) その気持ちは小川さんも同じであっただろう。が、重道さんがそう言う限り、私達はどうすることもできなかった。重道さんもその長男ももう亡くなり、現在は確か次男が梅田病院の病院長になられているはずだ。 こうして復員してからは人に会うごとに気が滅入るばかりであった。 (もう一切、人前には出ない。たとえ業界に復帰することがあっても、口もきくまい) いつしか、そんな風に思うまでになった。と同時に、私自身がどうしようもなく惨めな敗残者のように思えてきた。 今思うと、本当に苦しい時代だった。本来なら、苦しいときに力になって励ましてくれるはずの妻は、そんな私に愛想を尽かし、金沢八景の家を出てしまった。私には年老いた両親と三人の娘が残されたのである。 何をしようにも、手がつかなかった。私は茫然自失の状態で、口もきくことさえできない。いわゆるノイローゼの極限にあった。 幸い、金沢八景の家は四百坪の敷地のうち二百坪が畑になっていた。家には鳥取出身でかつて中学校の先生をしていた中山音蔵という爺やがいて、両親が疎開して行ってからも、家をしっかり守ってくれた。私はその爺やと野菜を作った。時折、そこで出来た玉ネギを持って戦友を訪ね、買ってもらったこともある。両親と娘たちは昭和二十二年に帰ってきたが、戦争直後のあの時代、米を除けば野菜が自給自足できたことと爺やがよく尽くしてくれたことは、本当に助かった。 ところで、両親が疎開していた信州・須坂の旅館には久子という娘がいた。一家は旧真田藩士の出で、三人の子息は二人が戦死、一人が戦病死している。そんなことで久子は毎日のように軍人援護局へ兄弟の消息を聞きに行っていた。私の母も第一線にいる私が心配で同じく訊きに行く。というような縁で気心が通じるようになった。また、前妻と娘たちを可愛がり、よく面倒を見てくれた。 久子はのちに洋裁で身を立てたいと上京した。そして昭和二十四年、私は彼女と再婚した。現在の妻である。 久子が家族の一員となってから、私のみならず両親をはじめとする家族の暮らしが、ずいぶん明るくなった。本当に感謝している。 しかし家内は、大場に入ってから、金沢八景の家の宏壮さからは想像できない貧しさを体験した。収入の途がないので仕方なかった。父は東京に戻ってから、海津氏を信頼して将来は面倒を見てもらえるのではないかと考えていた過ちを、ようやく過ちを、ようやく悟ったようであった。私の立場に立てば、なぜ私のことをもっと考えておいてくれなかったかとなるのだが、めっきり老け込んだ父にそんな酷な言葉を投げつけられるはずもなかった。 円の切り替えで旧円は紙屑になる。戦前、熱海に買っておいた三千坪の土地も手離さざるを得なくなる。それに、息子に継がせる店もない。……父にとっても辛い時代であったのだろう。そのショックで耳まで遠くなってしまった。 ともかく、仕事を始めなければならなかった。切り売りの生活はいつまで続けられるものではなかったし、野菜だけで生きていく訳にもいかなかった。 だが理髪業を再開しようにも、店そのものがなかった。 |