遥かなり昭和

第四章 陸軍中尉 大場栄一
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私は外地に二度、出征している。
 あの時分、お国のために命を投げ出すのは当り前であった。だが、もし私が自分一人の気持ちだけでなく、〈大場〉の店の跡取りであるという立場を真剣に考えていれば、自ら進んで外地に行くことはなかったのかもしれない。昭和十四年の一回目は、わざわざ自分から外地を志願したわけであり、十九年一月の招集には陛下にお仕えする身であったから、宮内省のほうで行かないでよいように手続きを取ってくれるとまで言ってくれた。
 今から考えると、これは軽率であり、若気の至りとしか言いようはない。この出征を機に、大場の店の全てが海津昇氏(父の弟子で当時も総支配人だった)に任されることになる。
 私は私で、微力ながらお国のために力になりたいという気持ちで一杯だったし、父も戦争でだんだんお客様が少なくなり、従業員が召集徴用で取られていくのを見て、私の出征も当然のことと受けとめていたのだろう。昭和十六年四月に南支から帰還したときには、よく無事に帰ってきたと店を挙げて歓迎会を開いてくれた父も、十九年に再度出征するときには、
「病気には気をつけろ」
 と、一言言っただけだった。前回のマラリア熱のこともあったであろうが、陛下に捧げた生命であるからたとえ私が還らないことがあっても当然であると、従容と臨んでいたのであろう。
 前回の十四年のときと較べて、戦況ははるかに厳しくなっていた。海を渡るのにも潜水艦の攻撃に曝され、我々の二十一隻の船団も、途中で三隻撃沈された。
 二度目も、南支だった。独立混成旅団歩兵第二百十九大隊で、私は陸軍中尉として当初五中隊小隊長、後に第二中隊長に任ぜられた。
 香港島の対岸にある九龍と要衝都市の広東(広州)を結ぶ広九鉄道については、知る方も多いであろう。私が十九年、南支に派遣されて最初に就いた任務は、この広九鉄道の守備であった。
 鉄道の守備は重要な任務である。広九鉄道は短いとはいえ百三キロあり、広東に軍司令部を置いていた日本軍にとっては欠かすことのできない鉄路であった。
 守備は私の部隊だけでなく、他の部隊も担っていた。全線を三つに分け、私共は一番広東寄りを守ったが、ともかく守備範囲が広すぎる。本来、鉄道を守ろうと思えば、兵力を鉄道沿いに展開し、敵を迎え討つのが一番なのであるが、それができない。こちらの兵力では一人や二人が敵の攻撃を受けることになるので、あぶなくてとてもできなかったのである。
 そこで、兵を展開する代わりに、全員まとまって行動させた。私のところには三個小隊あったので、一個分団ずつ行動させるようにしていた。
 それでも、毎晩のように敵襲があった。私は文字通り枕を高くして眠ったことは一夜たりともなかった。
 ところが、部下に高橋という肝っ玉の太い伍長がいた。この男が私共の地域を荒し廻っていた馬賊の親玉を手なずけてしまった。要するに裸の付き合いというやつで相手を心服させて、「先生(シンサン)、先生(シンサン)」と言われるまでになった。挙句に、さんざん日本軍の邪魔をしてきたこの親玉が部下を連れて帰順し、一帯の治安は大変よくなった。
 こんなことがあって後、熊本の部隊が広九鉄道の守備をやることになって、私の二百十九大隊は広東のもっと北、昭関のほうに配置替えになった。私共が押さえていたのは虎嶺という拠点で、守備範囲は三十六キロぐらいある。普通、このくらいの範囲になると、戦闘の場合なら一個連帯で守る。それを一個中隊で守るというのだから、もう線でなく点に過ぎない。
 もともとここは攻撃拠点として構築した地であったが、この頃になると英国軍やオーストラリア軍が敵側につくようになっていて、形勢は悪くなる一方だった。したがって、もっぱら軍司令部のある広東を守るのが主要任務となっていた。
 今思い出しても心が痛む事件が、ここで起きた。昭和二十年八月十一日のことだった。
 この時点で現実には日本の敗戦は決定していた。広島、長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦し、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を決めていたのである。それを敵側は知っていたが、日本軍の私共は知らされていなかった。将校が知らないのだから、兵隊は知るはずもない。
 日本軍こそ知らなかったが、敵の蒋介石軍はこの機に日本兵を一人でも多く殺せと指令を出していた。将校を生け捕りにすれば何万元という懸賞も出ていたらしい。私も警戒はしていたが、まさか賊の親玉を手なずけるという大手柄を立てた高橋伍長が、あんな目に遭うとは思っても見なかった。
 その日、私は高橋伍長以下一個分隊で虎嶺を警備させ、ほかの兵隊と共に一キロほど後方の兵営にいた。
 虎嶺というのは、小高い山になっていて、平地の敵の動きがすべて見渡せる。敵の海に浮かぶ小島のようなものだ。占領していたのも、戦略上の要地だったからである。もちろん歩哨が望遠鏡で四六時中周囲を監視していた。
 どうやらその日、村落から女が鳥肉を差し入れに来たらしい。そして、夕方になったら一献交わそうではないかという和平中国軍、汪兆銘軍の伝言を伝えた。共に闘ってきた兄弟軍であるから、拒むわけにもいかない。高橋伍長は早速、炊事の用意をさせた。
 薄暮と共に、汪兆銘軍の兵隊たちがやってきて、酒盛りが始まった。高橋伍長は現地人の心を捉えるのに自信があっただけに、つい油断があったのだろう。兄弟軍とはいえ、中国人兵士たちの前で上衣を脱ぎ、拳銃を取り、暑いからとシャツまで脱いで上半身裸になってしまった。その上、歩哨まで降ろしてしまった。
 宴たけなわになった瞬間、日本兵はいきなり銃撃を喰らった。逃げようとした者は途中で殺された。十一人全員が殺されてしまった。丸腰であったから当然である。私は何故、軍装をといてしまったのかと、思い出す度に残念でならない。軍装さえ解かなければ、奇襲されたにしても応戦できたから、全員殺されるようなこともなかったのである。
 私はその晩、村落からの知らせで、この事件を知った。すぐ全員を招集して三十人ほど掻き集め、トラックを出した。だが、地雷を恐れて、誰も先頭の車に乗りたがらない。私は夢中であったから先頭の車に乗り込み、怖がる運転手を脅し、無理矢理に発車させた。
 運が良かったのだろう。そのときは、地雷は一か所だけだった。一番危ないと思った橋のところで停まり、点検すると、橋桁のところに地雷が設置してあった。
 それを排除して目指す陣地のところに来たが、味方は生きているか死んでいるか、わからない。敵がまだ占拠しているかもしれない。「どうしますか」と部下に指示を仰がれ、ずいぶん悩んだ。敵がいればこちらは不利な闘いを余儀なくされるが、このまま放っておくわけにもいかない。そこで、周囲から一斉に登って突撃することにした。
 突撃命令を出して駆け上ると、もぬけの殻でシーンと静まり返っていた。すでに十一人は全員殺されていた。その殺され方も目をえぐられる、腕をもぎとられる、と酸鼻の極をきわめ、すさまじい地獄絵と化していた。
 汪兆銘軍は目的を遂げると、すぐさま自分の陣地に引き揚げていた。当時、日本人と手を結んだ者は「漢奸」と呼び、蒋介石軍の敵とされ、殺すようにお触れが出ていた。ところが日本兵を殺したものは帰順兵と認められ、漢奸として処罰の対象とされなかった。そこで、服を裂いたり、肩章を取って証拠として持ち帰ったのである。
 私は口惜しくて仕方がなかった。高橋伍長ともあろう者が、どうしてこんな油断をしてしまったのか。そもそも、今まで兄弟軍として闘ってきた兵隊たちが私の部下たちを騙して、なぜ人間とも思えないような残虐この上ない殺し方をしたのか。
 引き続き作戦に従事し、大隊駐屯地に戻ったのは、十六日になっていた。だから八月十五日には何があったのか、全く知らなかった。
 私は八月十一日の時点で、通信班に大隊本部へ連絡するよう命じておいた。従って、事件はすでに報告が行っており、軍法会議で大隊長が三週間、中隊長の私が二週間、小隊長が一週間の謹慎を命じられた。
 が、この処分ももう意味はなかった。日本は戦争に負け、軍隊は解体される運命にあったのである。

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