遥かなり昭和

第四章 陸軍中尉 大場栄一
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私は生まれつき、体が弱かった。胃腸が弱くてひ弱に育っていたし、家業が理髪であるから、荒仕事というわけでもない。だから、軍隊生活は辛かった。
 他の者に較べればグズだし、軍事訓練をやらされれば太刀打ちはできない。唯一私にできるのは真面目に務めることだった。内務班ならば、それが可能だ。
 内務の仕事は余り好まれない。例えば掃除である。便所掃除など誰も好きな者がいないのは当り前だが、同じように嫌われていたのは不寝番であった。
 不寝番とは、要するに急患とか脱走しようとする兵士が出ないように、見廻る役だ。一時間ずつ、各班から一人ずつ、六班まであるから六人で中隊内を巡回するのである。
 近衛の場合はほとんど脱走兵はないが、地方の連隊などでは、軍隊生活に耐えられなくなって、まれには脱走しようとする者も出る。
 近衛からは事故を起こす兵は出ないとはいえ、不寝番をサボろうとする者は少なくない。眠たくていやだと思っている者など、途中でずらかって便所で寝てしまうのである。
 食事運搬も楽な仕事ではない。私たちは「飯(めし)運搬」と呼んでいた。これは厨舎に食事を取りに行く仕事だが、あの時分は大八車に食事を載せて引いてきた。寒中など、誰も行こうとしないで、誰かにおっつけようとする。そんなとき、私は自ら進んで、
「飯運搬、行って参ります!」
 と、買ってでる。
 そんなことでもしないと、とても私はついていけなかった。
 例の熊ん蜂事件の富士山麓演習があった翌月、八月一日付で、二連隊の連隊長が川原さんから侯爵前田利為大佐に代わった。加賀百万石前田家の家系を継ぐ身で胸に「天保銭」でいらした。天保銭――陸軍大学校を卒業した将校だけが使用できる徽章である。
 この前田さんはすでに中佐時代からうちの店に来られていた。私は店にこそ出なかったが、前田さんが大場のお客様であることは知っていた。連隊長になってからも引き続きいらしていただいたが、お越しになるときには自動車だがたまには連隊の帰途御乗馬で店に寄られる事もあった。
 後ろには別当つまり当番兵を従え、九段から田村町(現在の西新橋一丁目四番地)までパカパカパカパカとおいでになって、馬は別当に引かせて九段に返してしまう。そして、頭をお刈りになると、今度は車がお迎えにくる。
 前田さんは加賀のお殿様で、ハンサムでいらした。美容室の女の子など、前田さんがおいでになると、大変だった。髪も、軍人ではあっても、華族さんでいらしたから坊主頭ではなく、ハサミで短く刈られていた。
 近衛の連隊長になられる前は、参謀本部付きでいらした。私は入隊する前から存じ上げていたが、まさか自分の連隊長になられるとは思っても見なかった。
 私自身は一幹部候補生であるし、まだ店に立ってお刈りできる力も備えていなかった。それでも土曜日など、早目に訓練が終わるので家に戻ると、お見えになっていることが何度かあった。前田さんは二週間に一度、必ずお越しになられた。
 そんなとき、ご挨拶申し上げると、軍服姿で理髪台に座ったまま、「しっかりやりなさい」と声をかけていただくことができた。これはまったくの偶然なのであるが、同期の者からは「お前、うまいことやりやがったなあ」と羨ましがられたものである。
 近衛連隊での一年間は、私にはとても貴重な体験であった。軍事訓練こそどうやらついてゆく程度だったが、内務班では一生懸命やったから、下士官や班長の受けはよかった。今思うと、私のいた二連隊の三中隊というのは、本当に素晴しい上官に恵まれていた。
 中隊長は坪内堅道という大尉で、坪内大尉は徳川家の旗本の一族の出身。それがどうしてか近衛に入ってこられた(当初は近衛は薩・長・土の閥であった)。また三中隊付きで近藤伝八という少尉がいて、陸士優等生で後に大陸を恩賜の軍刀組で卒業。その後、近藤中佐は参謀本部付きとなり山本五十六大将の南方方向の視察随行を命ぜられた。その途中を米軍レーダーのキャッチする所となり、レイテ上空で撃墜され海南の海に歿した。ちょうど私と同じくらいの年齢で、当時は少尉だった。人格高潔な方で立派な青年将校として未だ私の脳裏を離れない。
 教官は漆原さんといって、私の身上調書を見て、珍しく床屋の息子が近衛師団に入ってきたと思ったのだろう。私に関心を持っていただき、相談ごとがあればいつでも来るよう言っていただいた。私はよく家庭のことを話しに伺い、いろいろ相談に乗っていただいた。おかげで、軍隊に行くことによって、「ネクラ」で引っ込み思案な性格が変わって、自分でも気持ちが明るくなったことがわかった。
 一月二十三日の「軍旗祭」には、同期の者たちと素人芝居をやったのも愉しい思い出である。「軍旗祭」は明治七年に明治天皇が連隊に軍旗を授けられたのを記念したもので、この日ばかりは近衛師団は一般人に解放して、家族が見に来る。無礼講で酒は飲み放題、身分の違いはなくなって、上官に何を言おうと許される日なのである。
 昭和五年十二月、一年間の幹部候補生生活を終え、私は末期試験に受かり、軍曹になって除隊した。二年後、昭和七年に曹長として見習い士官の期末試験を三週間受けて合格し、翌年少尉に任官した。私は家業に就いて、浅草松屋の支店を見ているときであった。この結果は官報に載った。
 父は、私が将校になったと知って、本当に喜んだ。
「俺は御所で長いことお務めしてきたが、所詮理髪師というのは一民間人だ。だが栄一、お前が今度御所でお務めするときは、高等官八等の位がある。理髪師として、こんな名誉はないんだぞ。……本当に目出度いことだ」
 厳しい父が、目を潤ませ、手放しで誉めてくれた。
 父からこれほど誉められたのは、生まれて初めてのことであった。

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