遥かなり昭和

第四章 陸軍中尉 大場栄一
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私は通算五年余り、軍隊の飯を食っている。そのうち一年間は近衛師団における幹部候補生生活である。
 軍隊生活ことに外地での野戦では、辛酸をなめつくした。今振り返っても辛い体験であった。が、またこの軍隊生活はさまざまな意味で私を鍛え、変えていった。
 私が徴兵検査で甲種合格になったのは、ちょうど父が陛下の御用を辞退した昭和四年であった。今でもよく覚えているのは、発表の日のことである。
 芝公園の港区役所のところが当時は芝区役所となっていた。その二階で祝いの会があった。私は飲めない酒を、そのときばかりは友達と一緒に飲んだ。ビールではあったが、家に帰る頃には足許がフラフラしていた。きっと顔も赫くなっていたことだろう。
 家に帰って、誉めてもらおうと思って、「僕は甲種合格したんだよ」と告げると、母は「何に合格したんだ」と言いながら私の顔を見た。そして、いきなり頬をはたいた。
「何だ、この子は。ふしだらに酒を飲んで」
「今日はね、兵隊検査に合格して、甲種合格になった。お祝に区長から酒が出たんです。自分で勝手に飲んできたわけじゃありません……」
 そう釈明したが、母は納得しない。
「それでも。親の許可を得ないで、何事です!」
 と、大変な剣幕なのでる。
 現在は二十歳になった息子にこう厳しくする親はいなくなったが、あの時分、母は絶対の存在であった。母はまた、美容の仕事を持つ職業婦人であったから、いつも子供たちを見てくれたわけではない。そんな家庭で育った私は、今の言葉でいえば「ネクラ」で引っ込み思案であった。機会あるごとに頭が悪い、悪いと言われて、その傾向はいっそう強くなっていたように思う。
 その私が、甲種合格になってこの年十二月一日から、近衛師団歩兵連隊に入った。私の時代はちょうど一年志願兵の制度が終わった時期で、幹部候補生として学校に入ることになたものの、各地方に建設中の予備士官学校がまだできあがっていなかった。そこで、学校に代わって各連隊に配属されることになった。私の配属先は近衛の二連隊、現在の北の丸公園のところに一連隊と並んであった。
 一連隊はだいたい東日本出身者、二連隊は西の出身者が多い。私は幹部候補生であったため、東京出身にもかかわらず二連隊に入ってしまった。幹部候補生は六十五名で各中隊に十二名ずつ配属されたが、教育だけは幹部候補生合同で行なわれた。
 私にとって、集団生活は初めての経験であった。それも軍事訓練がたっぷりある。
 辛かったのは、射撃の訓練であった。この射撃だけは、どうしても上手にできない。私には片眼をつぶることができないからである。
 普通の人は、誰でも片眼がつぶれるが、私は片眼だけつぶることができない。いくらやってみてももう片一方の眼が開いてしまうのである。両眼が開いてしまうので照準が合わない。
 連隊の中には百メートルの射撃場があった。ほかに三百メートルの射撃場に出かけ、訓練することもあった。私は連隊の百メートルのほうでも、なかなか当たらない。真ん中が十点で、同心円の外に行くにつれ九点、八点と減っていく。私はそうした黒く塗ってある部分はまず当たった験しがない。せいぜい良くて五点、普通は三点くらいしか取れない。
 辛いと言えば、銃剣術もそうだった。これには腕に力がないと駄目だが、私はそれまで特別に体を鍛えたことはなかった。
 同期の人間はそれまでに、剣道はほとんどやってきている。柔道だとか相撲だとか、力を出す運動も何らかの形でやっている。私はそうしたことには縁がなく、せいぜい水泳くらいだが、水泳は軍隊の訓練とはまるで関係はない。
 入営して半年余りが経った昭和五年の七月だった。富士の裾野で演習があって、我々は全員徒歩で向かった。くたくたになって辿り着いた翌日、演習場に川原侃(すなお)連隊長がお見えになった。連隊長は厳しい方だという評判だった。
「連隊長のお成りッ」
 という副官の声に、整列してお待ちしていた我々幹部候補生は緊張した。
「連隊長に敬礼!」の声がかっかたときである。ブーンと熊ん蜂が羽音を立て、不動の姿勢で敬礼している列に襲ってきた。襲われた者はたまらず、手で払いのけている。その様子を連隊長はジーッと凝視しておられた。
 こっちに来なければいいな、と思っていると、熊ん蜂が私のほうにも来た。そして、目の上をいきなり刺した。痛いのなんのって、目玉が飛び出るほどだ。だが、敬礼の最中であるから、手で払うわけにはいかない。痛くてたまらず、私はジーッと連隊長を睨みつけた。自分では気づかなかったが、刺されたまぶたのところからはボロボロ血が出ていたのである。
 そのうちに連隊長が「そこの候補正!」と呼んだ。といっても六十四人もいるから誰のことやらわからない。教官が「大場!」と私の名を呼んだ。連隊長は声を張り上げた。
「名前は何というのだ」
「大場候補正であります」
「そうか、前へ出ろ」
 私はてっきり怒鳴られるものだと思った。すぐ、駆け出して連隊長の前へ進み出ると、敬礼した。すると、「みんなの方を向け」と命令された。廻れ右をすると、連隊長はこう話された。
「みんな、見たか。お前たちは蜂が来たくらいで、手をやったり、目の玉を動かした。こんなときに、もっての外だ。しかるに、大場候補生ひとりは目の玉一つ動かさなかった……」
 叱られるどころか、逆に誉められてしまったのである。
 廠舎(しょうしゃ)に戻ると「大場、うまくやったな」と冷やかされた。
「……だけど、お前、よく痛くなかったな」
「そりゃ痛かったよ。痛かったけど、しょうがないじゃないか。怖いから我慢していたんだ」
 そう言って笑ったが、他の者の眼には、私が見かけと違って大変度胸の座った男と映ったらしい。変なところで、私は男を上げてしまったのだった。
 熊ん蜂事件がはっきり記憶に残っているのは、川原連隊長の印象が大変強烈であったからである。後に昭和九年頃であったと思うが、まだ支那事変が始まる前に、満州国で日本国軍と満州国軍が中国軍に包囲されたことがあった。そのとき、川原さんは少将になられていて、日本国軍の挺身隊長を努められていた。この包囲網をどのよに突破すべきか作戦上も困難を極めていたところ、川原挺身隊長は鮮やかに敵前突破して、包囲網を解いて側背に廻り、大戦果を挙げた。
 川原挺身隊長の名は、新聞にも大々的に報じられた。私はそのとき、「あっ、自分たちの連隊長殿だった」と、嬉しく思ったのだった。その頃、私は一民間人に戻っていたから、川原さんがどうなられているか、知らないでいたのである。

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