遥かなり昭和

第三章 父子二代の天皇理髪師
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私が陛下の御用を務め始めた昭和十六年は、まだ陛下もゆとりをお持ちでいらした。ところが戦争が激しくなって、そろそろ負け戦の徴も出てくるようになると、陛下の御憔悴ぶりは痛々しかった。
 御政務も多忙を極められていた。それに従い、お召し替えの回数も増えられた。外務省など役所関係、陸・海軍、民間人、皇族の方、外国からの賓客……と、相手によってお召し物が違う。民間人には背広、外国人賓客にはフロックコートとかモーニング、軍服の場合は陸海軍両方の大元師でいらしたから両方お持ちになって、お召しになっていられた。
 多いときには、一日に何回となく着替えられた。十回以上ということも珍しくなかった。その度に、侍従さんの意向を受けて、お舎人さんがお持ちする。傍から拝見していて、あんなにまめになさらなくてもいいのに、と思うくらいであった。
 陛下の御用を務めていて、一番残念に思ったのは、お仕えする写真屋さんのことだった。陛下は御髪がとても固いので、立ってしまわれるところをポマードでお押さえする。まだドライヤーがなかった時代である。
 ところがこの写真屋さんが御髪に構わないで撮ってしまう人だった。そのお姿は全国民の前に発表されるが、そのときに御髪がバラバラだったり、乱れたままであったことがよくあった。ちょっと知らせてくれれば、私は飛んで行ってお直ししてさしあげられるのだが、それをさせてくれないから困った。
 写真はいつお撮りになるかわからないから、私としてはどうしようもない。陛下がしょっちゅうお召し換えするようになられて、一層、乱れが目立った。その都度御自分で直されるか、侍従さんがするかということになるが、当然私がやるのとは違う。そうした写真を拝見する度に、私は残念でならなかった。
 今のようにドライヤーがあれば、素人でも立っているところを寝かせられるし、髪をきれいにセットもできる。当時はドライヤーがないばかりでなく、戦時中だから電気もあまり使えなかった。廊下でもどこでもずいぶん暗かった。例のボイラー事故も、もとはといえば、燃料不足でお湯を一滴たりとも無駄に使うまいという節約時代のゆえでもあった。
 それにしても、陛下にとってお痛わしい時代でいらした。いかにお疲れになっていられるか、お仕え申し上げる私にはよくわかるのである。
 御政務がいやが上にも繁雑になられた時代である。恐らく、御理髪の時間は一日のうちでも数少ない、リラックスできる時間ではなかったかと思う。
 これは陛下の場合に限らないが、理髪というのはたんに髪を切りシェーブするだけでなく、心身共にリラックスさせてあげなくてはならない。日本で初めて始めたフェイシャルをはじめ、大場はそうした総合的なサービスを心がけてきたし、それを評価していただいたお客様がうちの顧客となって下さった。戦前も、また再出発した戦後も、政財界を初めとしたトップレベルのお客様に足を運んでいただいてきたが、皆様うちにいらっしゃると、謹厳で知られている方が普段目になさらない漫画本をお読みになったり、思いがけない素顔をお見せになる。それも、心身共のリラックスという結果の一つではないかと思う。
 陛下の場合は、普段とお変わりにこそならないまでも、やはり御理髪のときは緊張を解かれたようである。ハサミの音は規則正しいリズムであって、眠気を誘う。当時の陛下のように、御多忙を極められた身では当然でいらしたであろう。よく、お眠りになった。
 お眠りになるのも、お座りになった姿勢ではなく、倒れ込まれるようなお姿になられる。普通のお客様であったら、起こしてさしあげることもできるが、そうもいかない。
 だから、陛下がお身体を沈まれるような格好になられると、私も身体を低くしてお刈りする。うちの家では父の流儀で、お客様と同じ姿勢をしてお刈りするという伝統ができていた。それが〈大場式〉であったから、私には難しいことではなかった。
 お顔をお剃りしていても「こちらを向いてください」というような動作は決して明らさまにはしない。さり気なく、自然にお客様がこちらを向くようにレーザーを滑らせるようにはしても、「はい、こちらを」とはしなかった。
 それが高級店の高級技術たるものだ──。
 父はそう言って、店の者にも指導した。私は陛下の御用をお務めするに当たって、父のこの〈大場式〉の素晴らしさを改めて確認したのであった。
 ともかく、陛下を拝見していると、御心労の大きさにはお痛ましさを感じるばかりであった。せめて御理髪の間だけでも暫しの御休息をお取りいただきたいと、私は願った。
 それでも一度だけは、椅子から転げ落ちられそうになった。さすがにそのときは、禁を破って手にしたハサミを置き、申し訳ないとは思いながらも玉体を、渾身の力でお戻し申し上げた。陛下は「ウウーン」とおっしゃって、気付かれたようだったが、すっかりお休みになっておられたのでずいぶん重かったように記憶している。玉体をお起こしできたなど、本当にこの仕事に就かなければ想像もできない有難さであった。
 こうして陛下にお仕えして、二年半がたったときであった。今でもはっきりその日付は覚えている。昭和十八年十二月三十一日──。
 その日、この年最後の陛下の御用を務めていると、御用中には珍しく侍従さんが入ってこられた。後に侍従長になられた入江相政さん、当時は入江侍従であった。
 入江侍従は理髪室に入ると、まず陛下に無言で頭を下げ、私に向かって、
「これ、読んで下さい」
 と、一枚の髪を差し出した。私も頭を下げて、ハサミの手を休め、その紙に目を走らせた。招集令状が来たので、すぐ電話するように自宅から連絡があった。そんなメモが書いてあった。
 私は目礼をして、その紙をポケットに入れた。入江さんは陛下に最敬礼をして部屋を出られ、私は再び陛下に礼をしてハサミを手にした。
 ほんの短い間ではあったが、私は御理髪を中断したのだった。陛下にあられては、その中断が何であったかご存知のはずはなかった。今ならば事情をお話しになることがあるかもしれないが、あの時分はそんなことを口にできる雰囲気ではなかった。たとえそうであっても、陛下にはそれどころではあらせられなかったであろう。
 年が明けた昭和十九年一月四日、私は軍装を整え、侍従長のお部屋に申告に伺った。そこには百武侍従長、甘露寺侍従次長、白幡皇后宮大夫の三人がいらして、招集令状が来たので軍務に服する旨、申し上げると、甘露寺次長からは、
「君は大事な任務を負っているのだから、行かなくてもいいんだよ」
 というお言葉を賜った。
 しかし、そう言っていただきながら私は、
「招集令状は名誉でありますから、ぜひ行かせていただきます」
 と答えていた。三人は黙って頷かれ、
「そうか、やむを得んね」
 と、おっしゃった。
 あのとき、もし「さようでございますね。ならばそうさせていただきます」と答えていたら、すぐに手続きをとっていただけた。私の人生はもっと変わっていただろう。後から考えれば、ずいぶんそそっかしいことをしたものだと思う。しかしそれに気付いたのは戦争に負けてからであり、戦地に赴くまでは考えもしなかった。
 私はその足で陛下にご報告に伺った。玉座の前で百武侍従長と甘露寺侍従次長に伴われて待つうちに、陛下がお出ましになった。
「陸軍中尉、大場栄一、応召のため近衛歩兵第二連隊に入隊を命ぜられました。謹んでご申告申し上げます……」
 すると、陛下はこうおっしゃった。
「ああそうか。体を大事にして、元気で行っておいで」
 二年半、常にご慈愛の眼差と「有難う」の御言葉を頂戴していた私は、出征に当たってこんな有難い御言葉を戴くことができたのだった。

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