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遥かなり昭和
第三章 父子二代の天皇理髪師 |
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戦災で焼け落ちる前の御殿は、それは堂々たるものでだった。天井は高いし、廊下も広い。御理髪室はそこの三階にあった。 玉座もやはり同じ三階にあった。御理髪室のほうは、明治天皇がお使いになっていたお湯殿の更衣室を改造した部屋であった。 お湯殿の浴室のほうには、大理石の洋式バスタブが据えられていた。どんな男が入って身を横たえても、足の先がたっぷり余りそうな立派なものだった。今なら珍しくはないであろうが、蛇口をひねるとお湯が出てくるこのバスタブは、明治の頃の日本人には想像もできなかったことだろう。それが、そのまま置いてあった。 この明治天皇のお湯殿は、大正天皇の時代になると使われずに、そのままになっていた。御理髪室は浴室に続いている十畳ほどの更衣室を使っていた。床は絨毯敷きで、理髪椅子や鏡などももちろん本式の第一級のものを揃えていた。大正十年、当時まだ皇太子でいらした昭和天皇の御理髪を始めるに当たって、父が宮内省の依頼を受けて調えたものであった。 私は陛下の御用を務めるに当たって、指定された時刻にこの入口でお待ち申し上げる。衣裳は白いフロックコート型の理髪衣――父が考案して作らせた白の羽二重である。 陛下がおいでになると、最敬礼でお迎えする。頭四五度、三〇度ではなく必ず四五度である。陛下が椅子にお着きになるまで、頭は決して上げない。そして、椅子にお着きになったならば、タオルを首にお巻きしてケープをお掛けする。 御理髪に当たっては、お眼鏡とネクタイはおはずしになる。それは私がお預りし、ネクタイは三つに折ってテーブルにお載せする。 陛下は暑がりでもなく、寒がりでもなくいらした。というより、大変辛抱強いご性格でいらしたのではないかと思う。 真夏などは、背広を脱がれることがあって、そんなときには私がお手伝いして、お掛けしておく。私がお仕えしたのは昭和十六年六月からであるが、戦局がきびしくなるにつれて軍服をお召しになることが多くなった。陛下は軍服の場合は、どんなに暑い日でも決してお脱ぎにならない。 背広の場合は、下にチョッキをお召になっていたからであろう。軍服の下はワイシャツになってしまうから、立襟のホックをおはずしになるだけで、決してお脱ぎにならない。シャツ姿を臣下にお見せするものではないという帝王学を授かってこられたからであろうか、どんなに暑い日でもその禁を破ることは一度たりともなかった。 私がお仕えした時代は、もちろん冷房はなかった。戦時の体制になっていったから仕方ないとはいえ、寒くなっても暖房がなかなか入らなかった。私も手がかじかんで困ったが、陛下もお寒かったのではないかと思う。 ようやく暖房を入れていただいたのは、雪が降る頃になってからだった。暖房は、お湯を通して暖めるスチーム暖房であった。 ところが御理髪室は普段はお使いになっていない。同じ宮殿の三階でも、玉座のほうは暖房が行き届いているが、こちらは御理髪のとき以外は止めてある。陛下はもともと質素で几帳面な方でいらっしゃるから、無駄なことはするなとおっしゃったのではないかと思う。 たまにしか使わないから、このスチーム暖房が入るとガーッと音を立てる。だから、陛下がお成りになるときには前もってスチームを入れておいていただく。ところが御政務の関係で御予定が変更になり、急にお成りになることがある。すると、お湯が通ると大きな音がする。陛下はそんなときも何ともおっしゃらないが、私は御理髪の手を動かしながら、「ガーッ」の大音響がある度に畏れ多く、心が縮む思いがしたものである。 どうしても寒いときには、電気ストーブを持ってきていただくこともあった。しかしそれも暖かさは知れているし、そもそも天井がとても高い部屋であるから、ほとんど効果はない。冬が来ると、陛下はさぞやお寒いだろうと気が気ではなかった。 御理髪は二週間に一度くらいの割だった。たいがい侍従さんが理髪室まで陛下をご案内し、また終わる頃、迎えに来られる。従って御理髪の間は陛下とお二人になる。 時間は最長で一時間までと決まっていた。次の御予定がおありになるから、一時間を越えることは許されない。私は一時間を見ていただき、なるべく五十五分間で仕上げ、五分くらいはお休みになっていただけるように心掛けていた。 五十五分、と決めていても、時計を見るわけにはいかない。時計はテーブルの上に置いてはあるが、私自身はシャンプーをするから腕時計をはめているわけにはいかないのである。 陛下ご自身は時計をお持ちになっていて、時々覗き込まれることがある。陛下は近眼でいらっしゃるから、目に近づけてじっとご覧になられる。 普通のお客様なら、「今、何時頃になりましたか」とお訊ねすることもできるかもしれないが、もちろん陛下に向かってそんな余計なことを申し上げるはずはない。御理髪中は目線を合わすことのみでなく、陛下に話しかけるなどもってのほかである。 お済みになると、陛下は鏡に向かってネクタイを結ばれ、背広を直される。軍服の場合だと、ホックを戻される。そして、ひょいと後ろをお向きになって正対をなさる。私は畏れ多く、最敬礼をする。 すると陛下は、 「有難う」 と、おっしゃる。たった一言であるが、とても優しい声で、にっこり笑ってそうおっしゃるのである。 陛下がお帰りになると、床に散った御髪を掃いて集める。これは普通の店の場合と変わらないが、御所の場合はすぐ処分せずに和紙に集めて、扱い者の名前を書いておく。包み込む和紙はごく普通の半紙だったように記憶しているが、ともかくそれは保存しておき、十二月三十一日になると、まとめてお舎人さんの所へ持って行く。お舎人さんは焼却炉で陛下にお仕えした下着やハンカチ類などと共に、纏めて焼くことになっていた。 ちなみに、陛下の御理髪の報酬である。 初めて私が頂戴したのは「二万疋」であった。疋と言っても、普通の方にはおわかりにならないであろう。私は父から聞いて知ってはいたが、実は一万疋が二十五円に相当した。従って2万疋とは当時の金で五十円というわけである。 頂戴した封筒には「御下賜」とあって、私の名が書かれている。封筒の表はそれだけで、二万疋の謝礼は内に記されている。ただしそれは、私が初めて御所でお仕えした一回だけのことであり、次からは月給に代わった。 私が考えるに、前任者の山本氏の代からお手当は「疋」から普通に変わっていたのではないかと思う。ただ私の場合、第一回目だけは宮内省の伝統を味わわせてやろうというので、旧来の「疋」で戴いた。父が残した封筒には、すべて何万疋という額が記されていたのである。 頂戴する謝礼は、今から言えばそれほど大した金額ではなかったかもしれない。 私は十六年の六月は「疋」で戴き、七月からは給料に変わった。金額は九十五円だった。なぜ九十五円かというと、私の軍隊時代の地位が陸軍中尉であったからである。前任者の山本氏は十年も勤めたのにかかわらず、八十五円しかもらっていない。 私は高等官に入官していたから、正八位の待遇をして戴いたのである。以降、私の月給は変わらなかった。昭和十六年の当時、帝大出が月給九十五円くらいだったように思う。普通のおまわりさんが五十五円くらいだった。 月給になってからは、サラリーマンと同じで味気ないものになってしまった。普段のお手当てもそれほど多いわけではない。それでも天長節や皇后陛下がお生まれになった地球節、宮様方のお誕生日・・・・・・そうした日には改めてお手当てが出た。 |