遥かなり昭和

第一章 本格西洋理髪師 大場秀吉
人間万事西塞翁が馬、という故事がある。塞翁は馬に逃げられるが、その馬は他所から駿馬を連れて帰ってくる。翁の息子は落馬して足を折るが、それが故に戦死を免れる・・・。人間の運命というのはどう転ぶかわからないというこの故事を思い出すたびに、私は逆境を跳ね飛ばして生きた父のことを想うのである。
 父、大場秀吉は明治十一年十二月七日、横浜市石川三丁目、米商「玉屋」の渡辺歌之助の次男として生まれている。が、これは残された戸籍簿上のことであり、実際の出生は二年早い九年十二月七日で、役場が火災で原簿を焼失し、作り直す際に誤って記載されたらしい。大場の姓は後に事情を述べるように大場家の婿養子となったためで、本姓は「渡辺」である。
 渡辺家は代々、松本藩の藩士であった。秀吉の父、歌之助が郷里を捨てて横浜に出、米商を営むようになったのは明治初年の頃と言われる。
 横浜が西洋文明の窓口となる港町であることは言うまでもないが、石川町は外国人の居留地として出発した関内隣り合った町であった。そこで米商を営んだ歌之助の商い振りはどのようであったかは詳らかにはわかっていない。少なくとも、秀吉の少年時代は裕福で、使用人も多かったようである。
 こんなエピソードが残っている。
 秀吉が六歳の頃、母から毎日、天保銭を二枚、小遣いにもらっていた。天保銭一枚は当時、八厘から一銭の値打ちがあったそうである。その一枚で、稲荷寿司が二皿買えたというから、子供の小遣いとしては恵まれていたといえるだろう。
 ところが秀吉は、二枚のうち一枚は使わずい必ず竹筒の貯金箱に入れた。そして小学校に上がるときに、竹筒から残らず「貯金」を取り出し、机、本箱から手習い双紙まで自分で買い揃えた上に、学校の先生には菓子を買って、母からの土産として持参したという。
 私の六歳の頃を思い返すと、とても真似のできないことだが、秀吉が寿小学校に入学したこの頃から、家運は傾いていったようである。やがて借金がかさんで倒産し、家作を手離し、店と土地を売り払わざるを得なくなる。そして一家は扇町の小さな借家に移り、歌之助は外国人商社の門番を務めるようになった。
 門番の仕事は泊まりがけであったらしい。小学生時代の秀吉は朝七時に家を出て、母が整えておいた弁当の鉢を父の勤め先に届けてから学校に行ったという。
 こんな様子であったから、一家の暮らしが苦しかったのは想像がつく。歌之助には男二人、女四人の子があった。それに、積もり積もった借金もかかえたままである。
 秀吉は勉強が好きな子であったらしいが、とても上級の学校に行かせる余裕はない。そこで尋常小学校を卒業した十二歳の年から働きに出た。
 同じ年、どうにか高等小学校を卒業した兄の吉次郎は、市内の洋服屋に奉公に出ている。ちなみにこの兄は後に渡米して名テイラーの名を取り、ハリウッドに出入りし、三浦環が『蝶々婦人』を演じたときには衣装作りを任されている。互いに太平洋を挟んで助け合うこともあったが、それは先に譲ることにする。
 ともかく、秀吉は働かなければならなかった。
 最初に勤めたのは、自転車の工場であったようだ。ところが実際に働いてみると給料が安く、家計の助けにならなかったので、間もなく職を転じている。中国人経営の本屋、姉が勤めていた縫製工場、輸出入商「関通社」、外国人街の英国製品販売店・・・。秀吉は勤め先を三年の間に、これだけ替えている。
 替えざるを得なかったのである。何分、秀吉はまだ子供であるから、一人前には扱ってもらえない。当然、給料は安い。「関通社」に勤めた間は夜学に通うことが許されたが、それとて手に技術を持って一人前に扱われるまでには至らない。それを誰よりも知るのは秀吉自身であったが、貧窮を極めていく家の状況を考えれば、働く場所を選ぶ贅沢は許されなかった。
 秀吉は英国製品販売店に通い奉公をした時代を振り返って、のちにこう記している。
<・・・租界を転々としてきたるボーイ達は、みな我より年長なり。この連中の根性の汚きこと、話にならず。我いまだ十五歳なれど、ボーイ根性に染まりたくなしと思う・・・>
 汚き根性と秀吉が呼んだのは、具体的にはこんなことであった。
 たとえば洋酒を客先に半ダース届けるよう言いつかると、秀吉に八本持たせ、途中で待ち構えて二本抜き取り、それを他の店に横流しする。そんな先輩ボーイ達を諌めても嘲笑を浴びせられるばかりであった。
 ボーイがそうなら、英国人の主人は男色趣味の異常者で、それをいいことに使用人は陰で勝手放題をしていた。根性の汚さに眉を曇らせた十五歳の少年は、先輩たちからいじめられたようである。
 そんな秀吉の前に一人の救い主が現われた。母方の叔父に当たる山本仙吉であった。
 山本は当時、日本郵船のパーサーをしていた。仕事柄、海外の事情には明るい。この叔父が秀吉の苦労しているのを見て取り、上海行きを勧めた。
 上海には、知り合いの理髪師がいる。外人だが、腕に評判の男で、弟子入りを頼んでみてもいい。
 叔父は上海における理髪店の繁栄ぶりを知って、理髪業の未来を妹夫婦や甥に説いてきかせたのだろう。
 日本に理髪業が生まれるのは、明治維新を迎えて、髷から断髪に変わってからである。髪結業者のなかからは開港したばかりの横浜に出て、理髪業を始める者も出た。断髪令とともにその数は増えていったが、本格的に西洋式理髪を学んだ人はまだいなかった。
 いわば、理髪業の黎明期であった。明治も早いこの時期、今日名前が伝えられている理髪師は小倉虎吉、竹原五郎吉、原徳之助、松本貞吉といった面々である。いずれも、満足できる師について学ぶ機会はなかったものの、自ら工夫して技術を高めた第一世代であった。
 山本から上海行きの話がもたらされた明治の二十四年となると、もちろんもう髷を結う人はいなかったし、町の各所に床屋はできていた。その名の通り、本格的な理髪とはほど遠かったが、それで通用していた時代であった。もし、日本郵船のパーサーという職業になければ、山本も甥っ子に理髪師の弟子入りを勧めることなどなかっただろう。
 年が明けて明治二十五年、十六歳を迎えたばかりの秀吉は叔父の山本に連れられ、上海へ発った。横浜から長崎丸に乗り込み、神戸、下関、長崎を経て、上海へ向かうこの船旅で、山本は肺炎を起こして寝込んでしまい、東シナ海では大暴風雨に巻き込まれて普通なら十日間の横浜-上海間が十二日間もかかったという。
 幸い山本の病状は上海に着くまでには回復した。叔父から一冊の英語テキストを与えられ、船上で自習を始めた秀吉だが、叔父の進めが秀吉自身の運命を変え、日本の近代理容の道を大きく切り拓くことなど、想像さえできなかったであろう。
 後に父から上海渡航の話を聞かされる度に、嵐にもてあそばれる長崎丸の一隅で叔父の看病に当たりながら、不安を振り払って英語テキストに目を落とす十六歳の若き父の姿が彷彿とするのだった。

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