遥かなり昭和

第三章 父子二代の天皇理髪師
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父大場秀吉が陛下の御用を突然辞退することになったのは、昭和四年のことである。
 御理髪中に手が震えた、というのがその理由であった。まだ五十歳に差しかかったばかりであるし、陛下に何か粗相申し上げたわけでもない。ただ、僅かに手が震えたのに気づいたからであったからという。
 戦後の民主化された皇室しか知らない若い人には理解できないかもしれないが、戦前、陛下は文字通りの神でいらした。父が御用を務める前に必ず水で清めてから参内したように、もし陛下に不敬なことがあったら死んでお詫び申し上げなくてはならないというのが、自然な気持ちだった。もちろん御用を務めさせていただくのは最大の名誉であるが、自身の満足のために陛下にもしものことがあっては畏れ多いと父は考えたのだろう。
 手に震えを感じたその日、父は即刻、辞任を決意した。そして、翌々日には長崎に向かっている。
 長崎には、上海の修業時代、兄弟弟子であった生川亀太郎氏が開業していた。御理髪係を辞めるに当たって、責任上、信頼のおける人材を推薦しなければならないと、父は生川氏を訪れて意向を聞き、次いで宮内省にお伺いを立てた。こうして、秀吉の推薦なら間違いなかろうと、二代目の陛下御理髪係は生川氏に決定したのである。
 振り返ってみると、私がこっそり慈恵医大を受けて父からこぴっどく叱られたのは、父が陛下の御用から降りた直後であった。現在でいえば五十歳代はまだ若いが、あの時分は平均寿命が短かったこともあって、父は自分の年齢的限界を感じていたのだろう。それゆえに、後継者と恃(たの)む私が家業を捨てて医者をめざそうと考えたことに立腹したのは、今になってみればよく理解できる。
 その私は昭和六年、除隊後に初めて家業に本腰を入れ始めた。それまで店に手伝いに出ることはあっても、安田善三郎さんの電話の件で大失敗したように、積極的に取り組もうという気持ちはなかった。満二十二歳になっていたから、決して早い出発ではない。
 この年、正確に言えば十一月三十日に除隊し、翌十二月一日から店に出た。本店ではチーフの海津昇氏に教わり、やはり父の弟子がやっていた丸ビル内の渡辺理髪店へ通った。ここは社員の厚生用に設けられた理髪店で、一年半ほど通っただろうか。本店で習ったことをこちらで実習するようにという父の計らいであったようだ。
 本店では、海津氏だけでなく父からも習った。父はカットは海津氏に任せ、自分ではシャンプーやフェイシャルを教えてくれた。教え方はきびしかったが、とうとうカットは教わらずに終わった。年を取ると目が衰えたり、立ち続けて疲れたりして、誰でも若い頃ほどカットに情熱を燃やさなくなるものだが、父の場合はキャンブル直伝のフェイシャルやシャンプーが得意だったこともある。これを私に伝えたかったのだろうと思う。
 父はよく、見て覚えろと言った。
 自分の仕事は直接、教えない。覚えたい者はその仕事を見て、自分で研究しろというのである。現在のように、噛んでくだいて教えてくれるようなことは絶対にない。
 今、学校であったら四五度にこうして、こっちからこうして……と、懇切丁寧なマニュアルが出来上がっている。これは父の弟子の斉藤隆一さんが考案したものである。あの時分はまだこうした学校式の教え方はなかったのである。
 見て覚える――。
 言葉で言えば簡単だが、最初はどうしてよいかわからない。見て覚えろと言っても、覚えられる訳がないではないか……。その壁を乗り越えるまでが相当に時間がかかる。
 今の私には、ようやくその本当の意味がわかるようになった。さまざまな経験を重ね、失敗を繰り返し、やっとわかるようになってきた。それを思うにつけ、昔の人の言うことは本当に意味が深いと実感するのである。
 見て覚えるには、心が開いていなければならない――。
 私は父の言葉を思い出す度に、こう考える。心が開いていなければ、どんな技術が目の前にあっても学ぶことができないからである。それも他人から言われて開くのでは駄目で、自分から気づかなければならない。また、そうして学んだ技術でなければ、本物の技術とは言えないのである。
 こうして仕事を学び始めた私は、この頃、続々と出店を始めた〈大場〉の支店を見るようになった。見ると言っても、店長は別にいるし、私自身も本店に出る日もあった。私は主に支店の渉外を任されていた。
 昭和に入って最初の支店は銀座の松屋である。松屋といえば、父の兄吉次郎がハリウッドで『蝶々夫人』の衣裳を作ったときに、父は吉次郎の依頼で松屋で生地を整え、ロサンジェルスに送ったことがあった。この松屋に昭和四年、理髪室と美容室を作った訳だが、理髪室の方は弟子に与えて〈大場〉の名を出さず、美容室のほうだけ付け足しのように細々と営業していた。美容室が正式に〈大場〉の看板を掲げたのは昭和八年三月になってからである。
 私が始めて本格的に関わった支店は、浅草の松屋であった。
 浅草松屋店は理髪室が四十坪、美容室が三十坪くらいあった。百貨店の六階にあって、理髪室には理髪椅子を十九台、子供用を四台計二十三台置いた。美容室のほうは何台くらいであったか正確には覚えていないが、着付室、毛染め室、マッサージ室なども備えていた。
 大変な規模の店であったが、これは父が意気込み過ぎたためであったようだ。実際に店を開けてみると、まるで採算が取れなかった。土地柄を考えなかったためである。
 浅草松屋に開業した昭和六年、周りでは理髪料金が二十五銭だったところを、うちでは七十銭と設定した。しかも町場ではその料金で耳掃除までしてくれたが、うちはそういうことは一切しない方針だった。顔を剃っても西洋式にサッと剃るだけで、町場のように深剃りはしない。だから、土地の普通の人はなかなか来てくれない。
 来ていただいたのは「神谷バー」の社長とか雷おこしの「常盤堂」社長といった土地の名士の方々だった。遠くからも来ていただくことはあったが、それも会社の社長クラスで数も限られていた。これが銀座ならよかったであろうが、ともかくお客さんが来ないのでは話にならない。
 こんなことだから、理髪師一人で一日に二、三人やればせいぜいといったところである。店はもちろん赤字だし、職人のなかには文句を言って辞めて行ってしまう者もいる。これはまずいというので、三年後の昭和九年には理髪椅子を四台減らし、十二年にはさらに少なくして大人用十三台、子供用三台にした。こうして六年目にしてようやく採算ベースに乗った。
 しかし従業員にしてみると、この浅草松屋の店は必ずしも悪い勤め場所ではなかったようだ。開店当時、うちでは理髪師、美容師合わせて五十人近くを雇っていた。そこで吾妻橋のたもとに家を一軒借りた。あの時分は七十五円を払ったが、それだけ出すとかなりいい家が借りられた。
 ちなみに開店に当たって採用した一人は湯河原から細君と赤ん坊を連れて上京し、四十円の月給で家を借りて家族の食事を賄い、電車に乗って通ってきていた。帝大出の初任給が七十五円、早稲田と慶応が六十五円、その他が六十円から五十円といった時代であった。
 従業員たちは吾妻橋に借りた家で、二階は美容師、下は理髪師という具合に住んでいた。土地柄、夏になれば目の前を提灯をともした屋形舟が通っていく。町にはエノケンがある、赤線、青線があるという時代であった。浅草情緒満点で、ことに男の従業員は夜になるのが待ち遠しいという風であった。あの時分、五十銭を持ってカフェに行き、五十銭もチップを弾めば、大騒ぎができた。この魅力に取り憑かれてしまうと、今度は絶対に店を離れたがらない。父は本心は採算を考えて店を閉めたかったのではないかと思うが、こんなことがあって思い切れなかったようである。
 面白いことに、当時うちの美容師は母の考えで女学校を出た者しかとらなかった。ところが理髪の職人は中学校を出ているものなどいない。小学校、よくて高等小学校どまりである。
 だから昭和五年、第一回の理髪師試験があったが、皆落ちてしまった。これは学科試験で、かなり程度を落として実施されたと聞いているが、それでも大方は駄目だった。帝国ホテル店の店長をしていた者など、八回目でようやく受かったくらいである。
 私は第三回目の昭和七年に受けて合格したが、一回で受かるのは珍しいといわれたほどであった。

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