遥かなり昭和

第三章 父子二代の天皇理髪師
1
かつて昭和天皇の御養育係をされた甘露寺受長(かんろじ おさなが)さんという方がおいでになった。
 この方は大正天皇の御学友で、学習院から帝大の法科に進んで法学博士となり、どこかに勤めるつもりでいたところを大正天皇からお声がかかって宮内省へ行かれた。大正天皇とは、学習院時代によく相撲を取られ、ほかの学友は遠慮して負けるところ、甘露寺さんだけは大正天皇を投げてしまわれたそうである。
 宮内省では侍従次長や掌典長をお勤めになり、辞められてからは明治神宮の宮司をされていた。うちの店には若い侍従時代からお見ええになっていらしたが、晩年は私がお宅に参上して理髪をして差し上げていた。九十八歳でお亡くなりになったが、姿勢が悪くなるからと最後まで薄いせんべい布団にお寝みになられていた。幼かった昭和天皇が膝に乗られた写真もお持ちだったくらいで、陛下の爺やのような存在であったらしい。こうした立派な方はお会いしてお話を伺うだけで、人格の素晴らしさが伝わってくるものである。
 私はこの甘露寺さんから、どうして私の父、大場秀吉が陛下の御用を勤めるようになったかを伺ったことがある。父はそのことを話してくれなかったが、長らく大正天皇や昭和天皇にお仕えした甘露寺さんはよくご存知でいらっしゃった。
 それによると、こんなことであったらしい。
 田村町の〈大場理髪舗〉は開業当初から貴顕の客を多く招いていたが、その中には宮内省の侍従さん方もおられた。
 あるとき、宮内省でたまたま外国から「オーデコロン」の瓶を戴いた。侍従の皆さんはもちろん英語は読めるのだが、その瓶には使い方が書いてなかったから、何のために使うかわからない。
 そのとき、〈大場理髪店〉には横文字の化粧品がたくさん並んでいるのを思い出した人がいた。そうだ、あの大場に訊けばいい、ということになった。当時、侍従であった甘露寺さんもうちの客の一人で、早速〈一〇六二番〉の電話するように侍従長から命じられた。一〇六二番がうちの店の電話番号であった。
 父は電話口でそれが頭につけるものではなく、体につけるものであると説明して差し上げた。上海で修行していた父には造作もないことだったが、まだ、「オーデコロン」を知る人がほとんどいなかった時代であったから、侍従さん方は感心してしまった。そして理髪のことなら父が日本一であると、以来絶大な信用を博したという。
 この話があったのは、大正時代に入って間もない頃であったらしい。しばらくして、宮内省から初めての仕事の依頼があった。大正四年のことである。
 この年十一月、大正天皇は京都御所紫宸殿で即位の礼を行われた。その御お大典に合わせ、父がお道具の手入れを仰せつかった。頭をお刈りするのではなく、このときはただお道具の手入れにすぎなかった。
 宮内省では代々、侍従さんが陛下のご理髪をなさっていた。理髪の専門家ではないから、使い終わった後もそのままで、道具類は鉄のことで錆び、ボロボロになっていた。侍従さんといっても、実際に働くのはお舎人さんであるが、行き届かないことには変わりはない。それを御大典を機に、専門家に任せようとしたのである。
 理髪のお道具というと、髪をお刈りするときのクシ、ハサミ、バリカン、ヘアブラシといった道具類はもちろん、ほかにもケープやら理髪衣、シャンプーのグロスなどが必要になってくる。それらを以前は侍従さんがその場その場で注文して取り寄せていたが、今度は評判の理髪店〈大場理髪舗〉の主人に一括してやらせようということになった。
 新たな道具類は、選択はすべて父に委ねられた。陛下のために使用するものであることから、ヘアブラシから道具類を入れるカバンまで全部に菊の御紋章が入っていた。のち、私も陛下にお仕えするようになってから、それらと対面した。シェービングカップなどは何度も洗うからご紋章が剥げかけていたのも、なつかしい思い出である。
 そのときに調えたカバンは、私も見たことがある。黒の革カバンで幅三十センチ、長さ五十センチぐらい、ちょうど医者が往診のときに持つような頑丈で重いカバンでだった。
 父は道具類の選択には、とても気をつかったようである。たとえばタオル一枚でも、うちでは「森」のタオルを使っていたが、父はほかからも取り寄せて試している。タオルの良し悪しは、蒸しタオルといって蒸したタオルを顔に当てたときの感触でわかる。肉厚で、何回でも洗いのきくものがいいが、そのためには湿り気のない純綿でなければならない。そうでないものは父ならすぐわかったから、どけてしまい、結局「森タオル」を選んでいる。
 宮内省御用達とあれば、各業者から自薦、他薦がたくさんくる。ケープもそうだった。父がすべてをチェックして選んだのは、羽二重のもので、まかりまちがっても毛がお召しものについてはいけないから、たっぷり幅の広いものを用意した。幸い、うちでは早くからマニキュアをやっていたので、袖を通しために幅広のケープを使っていた。これと同じものを、父は宮内省のために選んでいる。
 当時、ブラシは「秋田」というブラし屋のものがよかったので、父が「秋田」に注文した。クシも国産のものを使った。ただし、レーザーはドイツのゾーリンゲンと英国のベンガルの二種を、バリカンは米国のクリッパー社製がいいということで、ケースに入れてお渡ししたようだ。
 こうして道具類だけは、第一級のものが揃った。のちに父は民間第一号の理髪師として、自ら調えた道具を使って陛下にお仕えするようになるが、この当時は侍従さん方の頭の中では平民に陛下の御髪に触れさせるなど考えも及ばなかっただろう。父が東宮殿下の御理髪を手がけるまでに、まだ六年間待たなければならない。
 父はこの黒いカバンを携えて、京都御所に参内した。その折り、大正天皇は御髪が固いので、「大場、どうしたらよいのだろう」と侍従さんから訊ねられたらしい。しかし、父はあくまでお道具の手入れ係であったから、理髪が済むまで待ち、掃除をしてすべてをカバンに納めると帰って来た。
 あの当時、陛下の御理髪は侍従さんが交代でおやりになっていたくらいだから、御所には専用の理髪室もなかったようである。恐らく、侍従さんが玉座の中でおやりになっていて、それゆえに持ち運びできるケースすなわちカバンに収納したのだろうと思う。
 京都御所への参内というと、面白いエピソードがある。このとき、芝山兼太郎氏が父に同行している。横浜のグランド・ホテル時代、父と一緒に働き、ライバルとして張り合っていた、あの芝山氏である。
 今も一枚の写真が残っているが、そこには父と並んで芝山氏の姿がある。御所の庭で撮ったのではないかと思うが、芝山氏は背広姿ではなく、父と同様フロックコートを着込み、胸を張って父と握手しているところを写真やに撮らせている。
 父に負けず日本一の理髪師になりたいというのが芝山氏の夢であったから、父の京都行きを知り、付いてきたのだろう。芝山氏は呼ばれている訳でもなく、御所に参内する資格もないはずだが、父と同じように手にはカバンを持ち、退出するときも並んで凱施してきている。負けず嫌いな芝山氏の性格が窺えて、ほほえましい。
 ところで、お道具の管理であるが、父は京都御所へお届けに上がってお手入れをしたものの、以降はお舎人さんが宮内省へ持ち帰って、ご自分達でなさっていた。戦前はお舎人さんの数も多く、私が伺った昭和十六年でも六人いらした。お舎人さんの仕事はそう多くなかったから、自分達で充分できるとお考えになったのであろう。
 ただし、手入れに関しても素人であるから、レーザーの具合が悪くなった、バリカンがおかしいということになると、父のところに持ってこられた。御紋章のついたお道具であるから、ほかの所にお持ちになるわけにはいかないのである。
 大場だったら任せておけば大丈夫、とお舎人さんはカバンごと置いていく。すると父は具合の悪いところを直し、全部きれいに掃除してから、お届けにあがる。私がカバンを見たのも、そのように父が預かっていた間だろうと思う。
 父はそのカバンを電話をしてからお届けに上がっていた。
 いつも、坂下門まで決められた時間に行く。すると、お舎人さんがお待ちになっていて、それを受け取る。あの頃はまだ父も門から内へは一歩も入れなかった。京都御所の折りは、お舎人さんから部屋ももらって一泊してきたが、これは特別待遇で例外であったらしい。
 こうして大正四年から六年間、父はお道具のお手入れのお手伝いを続けた。その間、外国からの賓客があって、理髪をするために呼び出されたことが何回もあったようだが、それとて公式の呼び出し状があったわけでなく、あくまで非公式のものであった。

ページトップボタン