遥かなり昭和

第二章 田村町大場理髪舗
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理髪師の家に生まれながら、私は親の仕事が好きではなかった。
 子供の頃から事あるごとに「床屋、床屋」と言われてきたからであろう。言っている本人はそう思わないかもしれないが、言われるほうはバカにされたような気になったものである。
 父は私が中学校を卒業したら、当然、家業に就くものと思っていたが、私のほうでは秘かな野心を持っていた。高等学校に進んで、父とは別の職業に就く……。家庭教師の草野さんもその考えに賛成で、熱心に勉強を教えてくれた。
 そんな野心を抱くようになったのは、友達の影響もあった。通っていた日大三中では、卒業が迫ってくると、やれ昭和医専を受ける、やれ高等商船を受けるという話題が飛び交って、中学だけで終えるというのはいなかった。現実に入れるかどうかは別にして、皆、上の学校に進みたいという希望を持っていた。私が家の理髪業を継ぎたいという気持ちを持っていれば別だっただろうが、そうでなかったから友達に影響されて進学したいと思うようになったのも当然であったかもしれない。
 もちろん、父にそんな気持ちを話すことはできない。それでも、もし高等学校に合格すれば、父も諦めて許してくれるかもしれない、と考えた。
 私は卒業前に、入学試験の受験願書を出した。慶応、名古屋の八高、慈恵医大の三校だった。手続きは全部、草野さんがやってくれた。あの時分は直接行かなければだめだったから、わざわざ名古屋まで行ってくれた。
 残念ながら、草野さんの努力の甲斐もなく、学力はあまりついていなかった。慶応を受けたときは、歯が立たなくてすぐ駄目だと思った。八高もとても難しかった。慈恵は手応えがあって、これはひょっとしたら受かるのではないかと思った。
 医科大に行きたいと思ったのは、私自身、幼い頃から体が弱く、病気がちであったからである。が、結果は、慈恵も落ちてしまった。口惜しかった。
 よほど口惜しかったのだろうと思う。その無念な気持ちを、つい、店のものにこぼしてしまった。すると、店のチーフをしていた海津昇氏が父に注進に及んだ。
 その晩、父に呼びつけられた。
 部屋に入ると、いきなりどやされた。
「親に知らせずに学校を受けるとは何事だ!」
 そう言うなり、殴られ、猛烈に蹴上げられた。
「体が弱いのをここまで育ててやったのも、何のためなんだ。大体、お前なんか医者になったところで、ヤブ医者にしかなれやしない。よっぽど頭があって医者になるならわかるけど、地盤もなくて何ができるんだ。……これだけの地盤を持ってやっているのを見ていながら、倅は親の有難味を知らないのか!」
 父は私がそんな気を起こしたのも、草野さんが知恵をつけたからではないかと疑った。そして即刻、草野さんを追い出してしまった。
 私も悩んだ。父から折檻されたにもかかわらず、もう一回挑戦してみたいという気持ちはあった。が、一晩考えて、やはり自分は父の言うように医者は無理ではないかと思った。それに、もしそんなことをしたら、自分も草野さんと同じように追い出されてしまうだろう。
 私はそのとき、自分には父と同じ理髪の道を歩むしかないことをはっきり悟った。
 こんなことがあった昭和四年、私は甲種合格になって、その年十二月から一年間、幹部候補生として近衛師団に入った。そして翌五年十二月に軍曹となって除隊した。私が家業に本腰を入れて取り組むようになったのは、この除隊後である。

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