遥かなり昭和

第二章 田村町大場理髪舗
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父の遠縁に草野さんという青年がいた。尾道の出身で、二高(現在の東北大学)の建築学科で学ぶ秀才だった。
 私が日大三中の四年生になったとき、父はこの草野さんを私の家庭教師に呼んでくれた。草野さんは大の野球好きで、当時帝大がAリーグに入った立役者である東投手と仲良しだった。ほかにショートをやっていた藤井さん、東投手に次ぐピッチャーの遠藤さんも仲間だった。草野さん自身はキャッチャーであったが、補欠だった。
 ともかく、秀才な上にスポーツができる。父の眼には、私は勉強も駄目、身体も弱かったから、草野さんなら私の体を鍛え、勉強の方も見てくれると思ったのだろう。
 家庭教師といっても、決まった時間に勉強を教えてもらうのではなかった。家族の住まいと道を隔てた家の一部屋を借り上げ、そこに草野さんと私とが一緒に生活できるようにしてくれた。草野さんは気風のいい人であったから、今でいう人格的な触れ合いを通して、私を後継者にふさわしい人間に鍛えてほしいと願っていたのだと思う。
 部屋は六畳ほどあって、草野さんの野球友達もよく遊びに来た。来れば、店で頭を刈ってくれるし、食事はご馳走してくれるから、皆大喜びである。冬には、夜になって夜泣きそばがやってくると、皆で食べに行った。そして、私の部屋でゴロ寝して、翌朝帰って行った。
 こんな雰囲気だから、楽しかった。帝大生と一緒になって遊び、いろいろ話を聞かせてもらえたから、ずいぶん贅沢な家庭教師であったわけである。父が望んだように、人格形成にはその意味で多少は役立ったかもしれない。もっとも、勉強のほうはあまり効果がなかった。 
 私はもともと、呑み込みが早いほうではないから、噛んでくだいて教えてもらわないとわからない。ところが草野さんは自分の基準で当然わかるものと進めてしまう。私のほうはウン、ウンと頷きながら、その実何もわかっていなかった。それでも父は草野さんを信頼して、私の成績には気を止めなかった。また、ふんだんに小遣いも与えていたようだった。
 父が草野さんを厚遇したのは、私だけのためではなかった。実は私の姉と将来、一緒にさせたいという下心があったようである。ところが姉のほうは全然そんな気はないし、草野さんにはもう許婚者がいた。確か広島県の三原市だったと思うが、その許婚者からは毎日のように分厚いラブ・レターが来る。
 私などは、草野さんにしてみれば、まだ子供扱いであったが、他の友達からはラブ・レターのことでからかわれながら、結構嬉しがってノロけていた。
 今でも覚えているのは、よく勉強を教えてもらっているうちに、途中で眠くなってしまう。すると、草野さんはそれをいいことに、すぐラブ・レターを書き始める。教わるほうが教わるほうなら、眠った隙を盗んでラブ・レターを書くとは、教えるほうも教えるほうである。
 草野さんの仲間で忘れられないのは、なんといっても野球である。
 昭和に入って間もないあの頃、都内にはアマチュア野球チームがたくさんあった。一番有名でかつ権威があった大会といえば、毎年春と秋、日比谷公園で六十六チームが集まって繰り広げるものだった。〈大場理髪舗〉チームも出ていたが、いつも初戦敗退であった。
 あの時分はまだ、スポンジ野球すなわちソフト・ボールだった。今の様な硬いボールはまだ学生しかできなかった。普通の人間にはそれだけの技術がなかった時代である。
 日比谷公園の大会では、四強豪と言れている常連チームがあった。帝国ホテル、松本楼、美津濃、同じくスポーツ店の新田だった。〈大場〉は六十六チームの中、下から数番といったところだった。
 ところが草野さんとの縁で、ある年、東投手以下、うちに寄り集まってくる東大野球部の面々が〈大場〉のユニフォームで出てくれることになった。なにしろ東さんは東京六大学野球で帝大が三シーズン続けて二位になったときのエースである。
 〈大場〉のユニフォームを着て出場したのは、東、遠藤、藤井の三選手ではなかったかと思う。ともかく、東さんが投げると、ボールが速くて見えない。私も外野を守っていたが、東大の三選手がいれば、ほかは必要なかった。それほど、レベルは違っていた。
 おかげで、たちまち優勝してしまった。父はもちろん喜んだ。自分は野球など興味もなければ、知ってもいないのだが、〈大場〉のユニフォームが優勝したことが、嬉しくて仕方がない。
 あの頃、銀座に「やまと」という洋食屋があった。ちょうど今の資生堂近く並木通りがあった。父は草野さん以下帝大野球部の連中をよく、そこへ連れていった。私も必ず一緒だった。
 学生の分際ではなかなか行けないところだったが、父は父でそうした若い人間を引き立てるのが好きだった。今でも覚えているが、ある日、草野さんが食事のときに東さんを指して、
「どうもこいつ、困るんですよ。変な女とくっ付いて」
 と、切り出した。
「だれだい?」
 と父が訊くと、
「いや、本牧のダンサーなんです」
 と草野さんは言った。
 あの時分、私の感覚では、ダンサーというとひどく不潔な感じを持ったものである。子供の頃、銀座に「フロリダ」というのがあって、そこのダンサーが美人揃いで、ダンスがうまかったので有名だった。それが確か溜池、新橋、続いて横浜の本牧に移った。東さんはそのうちの一人に入れあげてしまったわけである。
 東さんは後に都知事になられた東龍太郎さんの弟さんで、結局勘当されたのではなかったかと思う。そのときはうちの父も、
「そりゃ、まずいよ、東君……」
 と説いていたが、もうそんな忠告を受け入れる段階ではなかったのだろう。
 東さんといえば、うちのチームに大学生がいるとばれててしまったのも、この東選手からであった。初めのうちこそ、東さんたちは眼鏡をかけたりしてわからないようにしていたので、気付かれなかった。あまりにうますぎたので、おかしいと思われたのだろう。
 そのうち、新聞に出た東投手の顔写真から「足」がついてしまった。あの時分はテレビもなかったから、新聞が最大のニュース源だが、帝大野球部がちょうどAリーグに昇格したことから、東投手の写真が載ってしまったのである。
「ああ、あれは東だ!」
 そう騒がれたので、これはまずいと止めてしまった。するとたちまち以前の下位に落ちてしまった。
 〈大場理髪舗〉としては、野球に熱を上げた唯一最大の時期だが、東さんたちが何故チームに入ったかというと、うちには美容室があって、母は高等女学校卒業生しか採らなかった。そのためか美人が揃っていて、応援に来る。片や憧れの帝大生に手を叩くし、片や女の子が応援してくれるから嬉しい。とはいえ、この野球熱も、身許がバレたことであっけなく終わりを告げてしまった。

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