遥かなり昭和

第二章 田村町大場理髪舗
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田村町に本店を構え、帝国ホテルに支店を出し、やがて天皇陛下の御理髪係を務める―――。上京以来の父の歩みは、傍目には順調そのものに映ったことだろう。弟子入り志願者が絶えなかったのも、理髪師としての名声の高まりを物語っている。
 が、実際は順風満帆とは程遠かった。理髪師としての名声と、店を運営していく事業手腕は必ずしも一致しないのである。
 上京してから最初の躓きは、なんといっても新店舗の火事であった。資金を借り集めて理想の店を造り上げた瞬間、開店を前にして一切を灰にしてしまった口惜しさ、落胆ぶりは容易に想像できる。
 火事の直後、父は絶望から何度か鉄道自殺さえ考えたらしい。そうした父を立ち直らせてくれたのは、前にも名を挙げた増島氏、酒井静雄氏という後継者の方々だった。詳細はわからないが、融資してくれた金額の返済を凍結・猶予してくれた上に、再度店を造る上で大きな力となってくれたのは確かであった。それでも、新しく本店を立て直すのに六年もかかっているのは、被った痛手の大きさを物語っているように思う。
 私が物心つくようになった頃は、そうした時期も過ぎて、店の経営もかなり安定した時代に指しかかっていた。それでも私が小学校を卒えて千葉に住むようになった頃、父は例の火事に劣らぬ大変な危機に見舞われていた。
 そもそもは、帝国ホテルに支店を出し、店の成績がよくなかったことから始まるのだが、羽振りがよくなった父は「東京青バス」という、当時できたばかりの会社の株を買った。正式名称は東京市街自動車(株)、市バスの前身で、まだ民営であったのだが、この投資が当たって父はこの社長に祭り上げられてしまった。
 ちょうど第一次大戦が起こって、未曾有の好況に湧いた時期であった。戦争が終わると株の大暴落を皮切りに、いわゆる戦後不況が訪れる訳であるが、父にそんなことが読めるはずがない。時あたかも、東宮殿下の御渡米に当たっていたから、父は社長のまま供奉団の一員に加わった。
 ところが帰ってみると、戦後不況のあおりでその会社は倒産してしまう。倒産真近という状態にあったのかもしれない。ともかく父は一切を投げ出して手を引いてしまうのだが、後には大きな負債が残った。店まで担保に入っていて、そのままでは差し押さえられてしまうというところまで追い込まれた。
 父は本当に運の強い人間だと思う。この苦境にあったときに、またまた手を差し伸べてくれる人が現れた。のちに安田銀行の総裁をされた安田善三郎氏である。
 安田財閥の創始者は安田善次郎翁であるが、善三郎さんは秀才の誉れが高く、善次郎氏のご長女をもらって養子になった方である。
 母がこの善三郎氏の家族の方に可愛がられていた。その頃、頭をやりながら夫の苦情を話すと、善三郎さんに取り次いでくれて、ポンと三万円を貸してくださった。あの頃の三万円はそれは大金である。
 信用は一番の財産だ―――。
 これが父の信条であった。借りた金は、たとえ一銭といえども、きちんと返さねばならないとよく言っていた。
 父は何事にも几帳面であったが、金を借りたときはなおさらそうであった。このときも自分で帳簿を造り、毎月返済すべき利子と元金を計算して、日を定めて必ずその日に安田さんのところに返しに行った。
 安田さんは毎回、「はい、はい」と機嫌よく受け取ってくださった。これはずっと後、昭和十一年頃にようやく完済するのだが、その日、父を前にしてこう言われたそうである。
「君は毎月、一日も遅れずに返済に来てくれた。僕がいなければ家内にちゃんと差し出してくれた。本当に珍しい……。利息もきちんと払ってくれたけど、その利息は君に返すから、取っておきたまえ」
 結局、利息分の金はすっかり下さった。
 こうして金を貸して下さったのが縁で、父は安田さんのお宅に、頭を借りに行くようになった。以前やったことがある「お屋敷の理髪師」である。
 初めて伺ったとき、帰ってきて頂いた金額を見ると、五十円も包んであった。父はびっくりしてしまった。大正十年頃と言えば、うちでも一円五十銭、町場では三十銭から四十銭ぐらいだった。
 これは大変だと、父は早速電話してお屋敷に伺った。すると「まあ、いいよ。取っておきな」とおっしゃる。「いえ、それでは次から伺えません。では、とりあえず十円だけ頂きます。」と申し上げると「そんなこと言わんで。じゃあ、二十円にしろ」と結局、二十円になった。
 以来、父の代わりの者が行っても、二十円を払ってくださった。父が行くと、別に車賃として人力車代も加えてあった。そのうちに、お子さんも頼まれるようになった。こちらは十円下さったが、お子さんといっても、まだ小学校を卒業するかしないかで、もう一人お子さんがおられたはずだ。
 ところで、後の話になるが、私はこの善三郎さんのことで大失敗をしでかしたことがある。ちょうど千葉から東京に戻り、日大三中の四年生に編入した時分のことがある。
 その日、私はたまたま店に出ていた。別に仕事ができるわけではなかったが、下働きをしたり、理髪を終えたお客さんの車を「何々さんお帰りです」と呼ぶ役を買って出ていた。
 そんなときに電話がかかってきた。そばにいた私が受話器を取ると、「安田だが……」と声がした。
 瞬間、上がってしまった。私自身はお目にかかったことはないが、安田さんのことはよく両親から聞かされていて、特別に偉い人だということはわかっていた。安田さんはきっと理髪のことだったのだろう、「今すぐできるか」と訊ねた。咄嗟に私はこう答えてしまった。
「店の者ではありませんから、わかりません。」
 すると、電話の向こうから、「お前、誰だ!」と怒鳴られてしまった。
「悴だろう!中学生のくせにそんなこともわからないのか……」
 そう言うと、「たあ!」電話を切ってしまった。私が驚いたことは言うまでもない。すぐに母に知らせると、母も真っ青になった。これは大変だ、あの安田さんを怒らせたら、というので父と母、それに私の三人は慌ててハイヤーを呼び、安田さんのお屋敷に飛んで行った。
 お屋敷は九段の靖国神社のそばにあった。のちに確かフィリピン大使館になったと記憶している。立派な冠木門を潜ると、八十メートルくらい砂利道を歩いて玄関になる。そこに袴を履いた執事が待っていた。
 執事に案内されて、庭に面した十畳ほどの和室に通された。途中、理髪室の前を通ると、掃除が終わったばかりであったのだろう、戸が開いていてタイルを貼ってある床が見えた。父はいつも小僧を連れて出張に来ており、その様子は父から聞いて知っていたから、理髪室であることはすぐわかった。
 お茶が出されて、少し待つように言われた。そう長い間ではなかったが、私には途方も長く感じられた。やがて、廊下に足音がきこえてた。私は思わず平身低頭してしまい、話の間じゅう頭が上がらなかった。
「君もこれから中学を卒業したら、社会に出る身じゃないか。確か、長男じゃなかったのかね。家の商売を継ぐべき人間が、自分には責任はありませんというのは、一体どうゆう料簡なんだ……」
 こう、たっぷり油を絞られたのだった。

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