遥かなり昭和

第二章 田村町大場理髪舗
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父は大正六年、帝国ホテルに理・美容室を出した。私が小学校に入ったばかりの頃である。
 もっとも、帝国ホテルとの付き合いはずいぶん長い。まだ私が生まれるずっと以前、父が横浜から上京した翌年の明治三十六年からである。そのいきさつは、こんな事情であった。
 明治二十三年に誕生した帝国ホテルは帝都東京を代表するにふさわしい優雅なホテルであった。ただし、ホテル内には理髪室はあったものの、厚生つまり従業員を主にしたもので、時折、宿泊客から頼まれればやっていた。とても一流ホテルの理髪室と呼べるものではないが、当時はまだ宿泊客の数も少なかった。この理髪師というのが老職人で、腕もあまりよくない上に、病気になってしまった。それで支配人は父に、代わりにこの理髪室を受け継いでくれないかと打診してきた。
 支配人は将来、外国人客が増えるであろうことを予想し、父に声をかけたのであろうが、父のほうでは松浦さんという前任者がいることを気にして、その松浦さんに会っている。そして、職を失って困らないように、店の上りの何割かを毎月届ける旨、申し出た。その約束を父は守って、本人が死んだ後は未亡人に届け続けている。未亡人が亡くなったのは大正二年と聞いているから、それを十年間続けたわけである。
 父は任されるようになると、自分の弟弟子で上海から帰って来た杉浦浪二郎氏を派遣し、ホテルの従業員相手ではなく一般の客を相手にするようにした。といっても、店は小さく、客もまだあまり来ないので、とても採算ベースに乗らなかった。この時期には、店に看板さえ出していない。こうしたホテルの付属施設的な状態が大正六年まで実に十四年間続いた。
 ようやく〈大場〉の看板を出したのが、この大正六年である。一階アーケードの売店の一画に理髪室、美容室のほうは同じアーケード街であったが、椅子二台と狭かった。理髪室はかなり広かったが、美容室のほうは十坪程度のものではなかったかと思う。
 理髪室のほうは椅子が五台であった。そのこと自体は格別珍しくはなかったであろうが、うちの店にはマニキュアのバシン(洗面台)があって、そこに手をつけて洗い、オリーブ油をつけることができるようになっていた。もちろん、蛇口をひねればお湯が出てくる。店としてはかなり場所をとるのだが、今と変わらぬシステムが出来上がっていたのである。
 入口のレジスターの脇には、シューシャイン(靴磨き)があった。はじめはホテルのボーイにさせていたが、忙しくなってきて店の小僧にやらせ、さらには専門の人間を雇ったようである。ほかには、客の荷物を預かる場所があった。
 この時分はもう、外国人はシェービングを自分でするようになっていて、理髪店ではヘアカットとシャンプー、それにマニキュアをする客が多かった。値段のほうが一円五十銭、マニキュアが一円二十銭だった。マニキュアは高かったから、大半が外国人客だった。
 うちの店では、マニキュアリストの女性を雇っていた。この女性は野尻さんといって、フランス人と一緒になって子供を一人もうけた末、捨てられて上海に流れてきた女性であった。たまたま父がマニキュアリストを捜して上海の英字新聞に募集広告を出したところ、それを見た日本領事が、子連れで駆け込んできたこの同胞女性を紹介してくれたのである。
 マニキュアリストの経験があるというので採用してみると、まるでできなかった。それでも身の上話を聞いて気の毒に思った父が、母の許でマニキュアを習わせると、なかなか器用な性質ですぐ覚えてしまった。それに、フランス人と暮らしていたからフランス語はもちろん、英語もペラペラである。
 当時、女性のマニキュアリストは珍しかったから『都新聞』に、働く女性として大きく紹介された。たちまち評判になり、華族のお客さんなども同情して来てくれるようになった。なによりも愛想がよかった。
 たまたま犬丸徹三社長がまだ会計係として第一線に出ていた時代であった。犬丸社長は東京高商今の一橋大学を出て、渡満し、その後、欧米諸国のホテル事情を研究していた方だが、そのベテランの犬丸さんでもフランス語はよくできない。それで帝国ホテルにフランス人が泊まるときなど彼女に通訳を頼みに来た。
 帝国ホテル側でもずいぶん重宝がった様だ。マニキュアリストとしての腕を磨いていたし、あの時分は英語はしゃべれる人はいてもフランス語ができる人は滅多にいなかったのである。
 言葉に不自由しない上、心臓も強く度胸があった。美人でもあった。外国人で待たされて文句を言おうものなら、「それなら、他に行ったらいいでしょ」と怒鳴り出すし、大統領や大使が威張ってやってきても歯牙にもかけない。相手も何も言えなかった。
 この名物マニキュアリストに、父は歩合制の契約をしていた。彼女が七、店のほうが三の割合ではなかったかと思う。
 当時、うちの店で一番の高給を取っていたのは、田村町本店のチーフであった海津昇氏である。その海津氏が月給百三十五円くらいだった。ところが彼女は毎月、百五十円くらいの収入になった。
 かのチャップリンも日本に来ると、帝国ホテルに泊まって必ずうちの店に来てくれた。
 カットもしたが、マニキュアのほうが多かっただろう。チャップリンの第一秘書は日本人だったが、日本に来ると一週間に一度はこの日本人秘書がマニキュアをしたいと予約に来る。彼女はチャップリンの大のお気に入りでだった。普通の日本人はチャプリンが来ようものなら口も利けないが、彼女は英語でしゃべり続け、終わってからも笑いながら話し続けていた。
 私も帝国ホテルの店はよく遊びに行ったが、チャップリンに出会ったことはない。いろいろなエピソードは後になって耳にしただけである。ほかの人達はよくチャップリンのサインをもらったが、私の父は客からは絶対にサインをもらってはいけないと言って、許さなかった。
 お客さんを商売に利用するものではない、という信念であったようである。私もその教えを引き継ぎ、いまだもってサインを戴く癖がない。ずいぶん損をしているとも思うが、父の信念も頷けるような気がする。
 帝国ホテルの美容室は、後に昭和九年、私の二番目の姉が嫁いだときに姉に与えた。姉は母に就いて美容を勉強していたから、独立させた形になった。例の名物マニキュアリストのほうは、終戦間際まで通算二十年余り、帝国ホテルの〈大場〉の顔であった。
 いろいろ話題に事欠かなかったが、帝国ホテル自体が日本一のホテルとはいっても、店そのものは田村町の本店のほうが遥かに立派に思えた。
 一つには店構えそのものが、吹き抜けの天井を持つ本店のほうが風格があったということはできる。しかし、子供の眼から見ても、一番の違いは来てくださる顧客ではなかったかと思う。
 本店に来られるのは、華族が主で、中には皇族も混じっている。ところが帝国ホテルの店は一般の事業家で、華族はほとんど来ない。外国人は有名な人が来るとはいうものの、私共の感覚としては日本の格調高い方のほうが「偉いお客さん」という気持ちになるものである。ホテルの客は本店の客と較べると、ボーイに対する言葉遣いもぞんざいであった記憶がある。
 もっとも職人の中には、本店のような固苦しい客はいやだという者もいる。中には片言でも英語を話してみたい、少しでも楽をしたいという者もいた。それに外人の場合は必ずチップを寄こす。日本人は出す人はたくさん出すが、出さないのが当たり前になっている。ところが外人はどんな人でも、たとえシューシャインの十二銭の料金でも、習慣になっていて出す。そうした理由で、ホテルのほうを好んだ職人もいないことはなかった。
 ただし、チップに関しては、うちの店では本人にすぐ渡さず、チップを入れる箱にしまっておき、月末に渡していたようである。

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