遥かなり昭和

序 章
大正十年三月三日
大正十年の東宮殿下御渡欧をご記憶の方はどのくらいおられるだろうか。
 東宮殿下すなわちまだ皇太子殿下でいらした後の昭和天皇はこの年三月、英国国王ジョージ五世の戴冠式に天皇の名代として出発された。殿下が満二十歳をお迎えになられた年のことである。
 殿下が高輪御殿を出発、御召艦「香取」に乗船されたのは三月三日であった。この日付を今でも覚えているのは、「光輝ある三月三日」の字句が幼い私の記憶に焼きついていたからである。試みに当時の新聞を調べてみると、確かにそうであった。
「日出ずる国の皇太子旗、海を圧して西航す
 歴史は特記せよ、光輝ある三月三日を
 御発航を祝する国民の歓呼裡に
 十一時半御召艦香取抜錨せり
 めでたき御鹿島立」
 当日の朝日新聞には、このような長い見出しがあった。御学問所で七年間の勉学を修了された殿下が、旭日昇天の勢いで世界五大強国の仲間入りをした我が国の親王として、初めて御訪欧される─。この国民的熱気が、長い見出しからも窺われるかのようである。

大正十年のこの年、私は尋常小学校の五年生であった。幼い頃からのんびり育ち、すべてに奥手であった当時の私には、殿下の御渡欧の意味はまだ正確には理解できていなかったように思う。それでも、この御渡欧をはっきり記憶しているのは、級長をやっていた同級生からこんなことを言われたからである。
「大場、床屋のお父さんが新聞に出てたじゃないか」
 床屋のくせに、と言わんばかりの調子だった。私は口惜しくてならなかった。
 新聞に出たというのは、こうである。
 私の父、大場秀吉が民間で初めて殿下の理髪師に任命され、殿下の御渡欧に当たって供奉申し上げることになった。それが、朝日新聞であったか東京日日新聞であったか、隅のほうではあったが記事になった。後に私もこの時の新聞をお客様から戴いて大事にとってあったが、残念なことにどこかに無くなってしまった。
 級友がそれを知っていたのも、その小さな記事が町内でも大変な話題となっていたからだろう。殿下にお仕えするのがどれほど名誉で畏れ多いことか、戦前を知らぬ現在の若い人にわかってもらうのは、難しい。同じく、小学生であった当時の私にもまだよくわかっていなかった。級友の言葉に口惜しがったのも、そのためである。
 私の記憶に残っているのは、父の旅仕度である。
 父は大きな皮製のトランクを買い込んできた。私は初めて見るトランクに、どうしてあんなに大きなものが要るのかと不思議に思ったのを覚えている。フロックコート、モーニング、背広と、出発が近づくにつれ、持物は増えていった。
 まだ旅客機のなかった時代である。御召艦は南方各地に寄港しながら、七十五日かかってポーツマス軍港に着いている。英国に続いてフランス、ベルギー、オランダ、イタリアを歴訪されたこの御旅行は半年に及んだ。供奉団員に末席とはいえ連なった父であるから、荷物が多くなるのは当然であっただろう。
 殿下が英国王室から暖かく迎えられ、英国で八日間の国賓という異例の厚遇を受けられたことは日本の新聞に詳しく報じられた。パリでは竹下中将とたった二人で切符を買って地下鉄に乗り、切符を固く握りしめたまま改札口を通り抜けようとして駅員に怒鳴られたエピソードも知られている。名将ペタン元帥の案内で、第一次大戦の激戦場ソンムとベルタンの戦跡を視察され、戦争の悲惨さを胸に刻まれている。
 しかし私は、父から御渡欧中の出来事は直接聞いたことはない。御渡欧のみならず、父は、御所にお伺いした折のことも一切口にしなかった。これも現在の若い人には理解できないかもしれないが、殿下にお仕えする者がいかなることであれ、目にしてことをみだりに口外するなど考えられなかったのである。相手がたとえ家族であろうと、それは同じであった。
 これを機に父は殿下の御用を務めるようになり、やがて昭和元年、殿下が昭和天皇となられると同時に天皇陛下御調髪係を拝命することになる。大場秀吉の名が陛下の初代理髪師として知られるのはこれからである。
 殿下の供奉に当たって、父がどれほど誇りを抱いたことかは、私自身が後に陛下の御用を務めようになって痛いほどわかった。この欧州御訪問は陛下にとって文字通り青春の記念碑となられた。我が大場家にとっても、大正十年の東宮殿下渡欧は、忘れることができない出来事となったのである。

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