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遥かなり昭和
第三章 父子二代の天皇理髪師 |
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私が一人で自信を持ってお客さんを相手にできるようになったのは、昭和十年頃になってからだろうか。満で二十六歳を迎える頃である。 それまでも、もちろんお客さんを相手にしていたが、たとえばカットなどは店長が仕上げを取って変わった。あの時分、最後の仕上げになると、店長が担当の職人を押しのけて自分でやるのは珍しくなかった。 現在なら、途中で代わろうものなら理容師のプライドを傷つけるものとしてイヤな顔をされるであろうが、あの頃はそれが普通だった。代わられるほうも憤慨するわけでなく、代わるほうも、自分ができるからという意識ではなく、お客さんに少しでも満足していただこうとするサービス精神からそうしていたような気がする。 あの時代は、すべてにのんびりしていた。従業員の給料にしても労働組合がある時代ではないから、父が独断で決めていた。海津氏が店では一番高給で百二十円もらっており、母が百十五円であった。 実際には美容部門の先頭に立って店で一番働いていたのは母であったが、父はその母の給料については一言も母には相談しなかった。父が迷うことがあると、相談に行くのは古くからの同業者のところであった。そして、互いに相談して決めてしまう。まだ、働かないで何となく食べていた人も居るし、今のように金が余ればすぐ銀行に持っていくという時代ではなかった。 私は浅草松屋と共に新宿伊勢丹の支店をも見るようになっていた。伊勢丹に出店したのは昭和八年である。こちらは浅草松屋とは正反対で、開店当初から順調であった。 デパート内の店では、売り上げは全部いったんデパート側に持って行き、店では現金は一切手にしない。そうした売り上げの報告書をデパートの事務所に届けたり、自分が行けないときは印を押して会計係に届させたりするのも私の仕事であった。 二つの店を見て、私は本店に戻ってくる。この頃、両親は金沢八景に家を建ててそこから通い、私が本店の家に住んでいた。戻ってくるのは、夕方六時半から七時頃になる。そして食事をして、八時になると店に出ていく。 店には各支店の従業員たちが集まってきた。浅草松屋、帝国ホテル、銀座松屋……このうち銀座松屋は美容室だけであり、当然美容師たちも集まる。こうして八時から、理髪、美容に分かれての勉強会が毎晩欠かさずに行われた。 理髪の場合だと、集まってきたのは二十人ほどだろうか。一人前になるともう出なくなるから、技術のレベルが中以下の者たちである。 講師は先輩たちが務める。本店の海津氏以下の技術者が教えることになっているが、必ずしも毎日付き合ってくれるわけではない。そこで、キャリアのある者が順番に教えた。この時分になると、私も教える側になっていた。 この勉強会では、シャンプー、フェイシャル、ヘッドマッサージ、カットと一通り教えるようになっていた。父秀吉が上海の長島理髪店で修業した頃は、従業員が互いにモデルになって練習していたらしいが、私の頃は近所に喜んでモデルになってくれる人たちがいた。おまわりさんである。 今は撤去してしまったが、現在の西新橋の角に交番があった。そこのおまわりさんは愛宕署から来ており、交番に頼みに行くと仲間のところに電話してくれる。 「これから始まるぞ。大場さんのところだ」 そう伝えると、非番のおまわりさんがすぐ駆けつけてくれる。いい化粧品をふんだんに使って、普通なら町場の何倍もする豪華な店で無料でやってくれるとあって、おまわりさんの来ない日はない。少なくとも三人くらい、多いときだと七、八人にもなる。 おまわりさんがこうしてやって来るのがきっかけになって、美容部門では仲良くなって結婚した人も何人かいる。そのうちの一人は、確か相手のおまわりさんが局長くらいまで出世したのではないかと思う。 この勉強会は時間に制限がない。夜の十一時半頃になることがあれば、十二時半になることもある。皆、熱心だった。 もっとも、勉強会に出ないで、遊びに行ってしまう者もいる。現在では競技会があって技術のランクづけもはっきりするようになったが、あの時分はそのようなものはなかった。だから仕事のできる者は互いに励ましあって腕を磨いていたし、怠ける者はとことんまで怠けていた。 こうした勉強会には、もう父は手を出さなかった。父は店内の事は海津氏に一任していたし、父自身も町副会長を初めとしていろいろな仕事を引き受けていた。そのなかには「釣りの友の会」の会長まであった。 昔から釣り好きであった父は、ますます嵩じて月のうち三回は必ず行くようになっていた。それも玄界灘のほうまで足を伸ばす。あの時分、玄界灘方面といえば東海道本線から山陽本線に乗って二十二時間くらいかかった。帰りは魚篭の中に魚が一杯で、皆に食べさせて喜んでいた。本当に釣ったのかどうかはわからなかったが、ともかく魚篭の中は空ということはなかった。 父はもう私の仕事ぶりに対して、一切口を出さなかった。が、それ以前私に「仕事は見て覚えろ」と言ったように、父の生きる姿勢そのものが私にとっては大きな目標になっていた。 父が終生、自ら言い続け、かつ自分自身で示そうとしたのは「人格」であった。 「理髪師というものは本当は素晴らしい職業なんだ。“床屋”と蔑まれるようなものではない。それを、栄一たちが身をもって示さなければならない」 父は口癖のように、そう言った。 あの時分は町場の店では、店主が仕事を終えると日銭を懐に入れ、遊びに出ることは珍しくなかった。父はそうした風潮を嫌って、「飲み、打つ、買う」は一切やらなかったし、私達にも禁じた。理髪師の人格を高めるためには、天皇にお仕えした〈大場〉の人間がまず模範を示さなければいけないと考えたのである。 「人に甘えちゃいけない」 とも、よく言った。他人に迷惑をかけることは一切するな、ということなのである。 「ただ飯は食わずに、自分で払え。払えなかったら、行くな」 と、言われ続けた私は、他人との付き合いはあまりしない。その代わり、払うときは必ず自分でする癖がついた。同じことは息子にも言っているから、他人に甘えるなという教えは大場家三代にわたる家訓になっている。 理髪師の仕事はもちろん技術は欠かせない。理髪技術は最高のものを持たなければいけないのだが、この技術には自分の人格が表れる。父が人格の向上を酸っぱくして言ったのはそのためである。 技術は、また、仕事をしていくなかで磨かれるものである。だから、技術と仕事は別なんだという感覚の人は「職人仕事」になってしまう。これではいつまで経っても「床屋」から抜けられない。技術をマスターすることによって人間が磨かれていかなければ、本当の技術とは言えない。 私は父から無言のうちにそんな教えを受けたような気がする。そしてそれは、畏れ多くも陛下の御用を務めさせていただくようになって、よりはっきり悟るようになった。 |